佐世保事件。

消えちゃったので、2回目。苛つくけど、大事なことだらか…

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140727-00000045-jij-soci
 27日午前3時20分ごろ、長崎県佐世保市島瀬町のマンション一室で、同市祇園町の県立高校1年生が頭から血を流して倒れているのを、捜索願を受けて捜していた県警佐世保署員が発見した。彼女は既に死亡し、頭と左手首が切断されていた。彼女と同じクラスで、この部屋に住む女子生徒(15)が「すべて私がやりました」と殺害を認めたため、県警捜査1課は殺人容疑で逮捕した。女子生徒は逮捕後の調べに、反省の言葉は口にしていないという。同課は2人の間にトラブルがなかったかなど、殺害や遺体を切断した動機を調べている。

 なんとも凄惨な事件。被害に遭われた方にはご冥福をお祈りいたします。こういう事件を起こさないようにするため、ちゃんと考えていかなくてはいけないと思う。佐世保では過去にも凄惨な事件があった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140728-00000092-san-soci
 佐世保市は小6女児殺害事件の翌年から、6月を「いのちを見つめる強調月間」とし、毎年、各小学校で命の尊さを学ぶ講演会や、道徳の公開授業などさまざまな行事を企画してきた。長崎県教育委員会も同事件の翌年から、子供が感情を表に出せるかなど「危険信号」を数値化して、未然に非行を防ぐ試みを始めていた。事件後、県内の大人が電話で子供の声を聴く「チャイルドライン」も開設していた。

 対策はしていた。しかし届かなかった。想像だが、加害生徒は「命の大切さを知っていた」と思う。けど、「命を大切にする」ことはできなかった。ここには絶望的なほどの違いがある。
 加害生徒の「異常さ」も殊更報道されがちである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140728-00000521-san-soci
殺人容疑で逮捕された同級生の少女(16)は周囲から「文武両道で多才」と評価される一方、「暗く、変わった子」とも見られていた。昨年秋に母親が亡くなって以降、生活が激変していたといい、県警は事件に至った背景も含め、慎重に調べを進める。

 「文武両道で多才」な上、「人格も素晴らしい」人はほとんどいないと思う。なぜなら周囲の全ての人に「人格が素晴らしい」と評価されることはほとんどないからである。だから、大概の人は「変わった人」である。上記の記事には他にも書かれている。

ただ、学校関係者によると、少女は小学生時代に同級生の給食に異物を混ぜる問題行動を起こしていた。中学校では小動物の解剖に夢中になっているという噂が広まり、「少し浮いた感じになっていた」という。

 この「異物」は塩素系薬剤だそうだ。小学生でこんなことをするのは確かに変わっている。見ようによっては、頭がいい印象を受ける。少なくとも私が小学生の頃は、「塩素系薬剤を入れよう」という発想がない。せいぜい消しゴムのカスを入れるくらいだ。「解剖に夢中」も確かに変わっている。ただこれも知的好奇心の表れだと判断もできる。
 このように「加害生徒の異常さ」がかなり早い段階でニュースになっている。加害生徒は良い面でも変わった面?でも有名だったのかもしれない。ここで私が1つ確信したことは、加害生徒の「異常さ」について、周りの大人の誰かは気づいていたということだ。もちろん私の確信なので、なんら説得力はないが。ニュース番組で、「小学生の事件のとき、きちんと学校が指導できていたかが問題です」と言っていたが、この人は何をもって「きちんとした指導」としているのか不明だった。教えて欲しいくらいだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000009-sph-soci
 捜査関係者によると、女子生徒は「人を殺してみたかった」と供述。「遺体を解体してみたかった」という趣旨の供述もしているという。また、遺体は首と左手首が切断されていた以外に、腹部が大きく切り開かれていたことが、関係者への取材で分かった。

 この発言は確かに異常である。ただし上記にも書いたが、「人を殺してみたかった」ということと、「人を殺すこと」は絶望的なほどの違いがある。多くの人が「殺してやる」と思ったことがあるだろうが、実際に行動に移す人はほどんどいない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000003-mai-soci
逮捕された女子生徒(16)は高校に進学した今年4月から、市内に暮らす両親と離れて1人暮らしをしていた。長崎県教委によると、生徒の1学期の登校日数は3日。中学の時に担任だった教諭が1週間に1度、2週間に1度というペースで生徒を訪ね、食事もしながら生徒が教諭に相談することもあったという。実母はがんのため入院した後、昨秋に亡くなる。「お母さんが入院したころから元気がなくなった。ショックだったと思う」と生徒は言う。女子生徒の家庭環境の変化は更に続く。近所の住民によると、父親が今春に再婚した。

 これはある意味、非常に特殊な家庭環境だったのだろうと思われる記事だ。だから保護者が悪いとするつもりはないが、私はこの家庭環境は良くないと率直に思った。
 いろいろ書いてきたが、加害生徒の動機をいくつかに絞るつもりはない。映画「エレファント」にも描かれていたが、動機というのは私達が事件を理解するために必要なもので、加害者にとってはどうでもいいことかもしれない。ただ記事からわかってきたことは、①加害生徒は変わった面を持っていた、②家庭環境が特殊だった、の2つだけである。ただ何度も書いてきたが、「殺そうと思う」ことと「殺すこと」は絶望的なほどの違いがあるが、彼女はそれを乗り越えてしまったということだ。これは「命の大切さを知る」ことと「命を大切にする」ことの違いと似ている。この違いを教えることが、学校教育でできるのか。これが大きなポイントだと思う。正直、自信はない。「命を大切にする」ことを教えられた記憶がないし、「わかる」ものでもないと思うからである。適切かどうかわからないが、「刻む」ものだと思う。
 何かを教える際、どうでもいいことは大概どうでもいい感じで教える。ただ、それが人間にとって大事なことだと思えば思うほど、力が入り、熱を帯び、激しさを増す。本気で教えるとは、そういうことだと思う。「命を大切にする」ことを教えるとしたら、そういうことの積み重ねしかないと思う。けど、残念ながら今の学校でそれはできない。
 今、教員はひどく臆病である。生徒に「人」を教えようとすると、教員の「人格」を査定され、少しでも瑕疵があると、徹底的に否定される。こんな状況で、まともに人として大事なことを教えようとする教員はほとんどいない。リスクは高い上に、改善する見込みも少ないからだ。本気で生徒を指導して、本気で教員を支持してくれる保護者も少ないだろう。だから難しい。特に家庭の問題はなおさらだ。私も経験したことがあるが、非常に難しい。家庭の影響で生徒がおかしくなり、保護者もそれに気づいていたとしても、止められない。反対に家庭の影響もあって生徒が不登校になっているのに、保護者が変わろうとしない。相変わらず、自分の娘の彼氏を誘惑したりしている。家庭環境はみんな違い、みんな感じていること・考えていることが違うから、介入できないのだ。
 こういう事件が起こるたびに、ニュースになる。けど、すぐ流れていく。「命の大切さを教える」ことと、「命を大切にすること」は違うのに、それをどうするのか。少なくとも、この問題に対して、学校は無力である。どうすべきか、誰もわからない。だからみんなで真剣に考えなくてはいけないのだと思う。