平気でうそをつく人たち

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

「邪悪」を分析する心理学の本です。

悪を直視できなければ、人間の悪をいやすことなど期待できない。

 「嫌な話」はあるものだ。人に迷惑をかけた話やミスした話、あほな話など、失敗談は酒のつまみに最適だ。けど、聞くのも「嫌な話」っていうのはある。聞いたとき、なんとも言えない嫌な気持ちにしかならない話が…。けど、そこにこそ、人間社会の暗い部分が表れている。
 最初の話は「悪魔と契約した人の話」である。悪魔なんて…と考えていた私に、悪魔と契約することをまざまざと見せてくれた。悪魔の話は、けっして科学的ではない。しかし、もし科学が物事をあらゆる角度から客観的に分析する学問なのだとしたら、この「悪」の問題についても研究しなくてはならないのではないか、これが著者の主張である。もちろん「悪」について研究するなら、「善」について研究する必要がある。「倫理学」の範疇ではないかと言いたくなるかもしれないが、個人的には哲学と科学は最先端で絡み合っていると思っているから問題は感じない。
 二つ目の話は、「兄が自殺してしまった弟の話」である。ここでは、その両親の無神経さ?が問題となっている。

子どもが精神科の診療につれてこられたときには、その子どもは「見なし患者」と呼ばれるのが通例となっている。〜障害の診断を進めるうちに、その障害の源が当の子ども自身にではなく、その子の両親、家族、学校あるいは社会にある、ということを発見することが多い。

 なるほど、非常に思い当たるフシがある。もちろん、子ども自身にも独特の繊細さや几帳面さ(これは結構多いかも)があり、悪循環に陥っていることも多そうだ。

子どもにとっては、親というものは神のような存在である。〜親の行動を現実的に評価することは彼らにはできない。親に間違った仕打ちをされた子どもは、通常、自分のほうが悪いのだと考えてしまう。〜子どもの発達の法則に到達することができる。〜すなわち、「子どもが親の著しい悪に直面したときには、ほぼきまって、その状況を誤って解釈し、その悪は自分自身のなかにあると考えてしまいがちだ」ということである。

 ちなみに「子ども」って何歳まで何だろうと思ったが、こんも話の弟は15歳である。そして大概こういったケースでは、親が治療を受けることはない。

健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。

 そう、逃げ出したくなる。話していたくなくなる。電話を切りたくなるのである。もちろん、それが相手の邪悪さからきているのか、自分の気持ちの問題なのか、この判断は非常に難しい。私は、特に一線を越えたときの反応が顕著にでてしまうので、余計難しい。そして邪悪な人々は、単に邪悪であるという以外の特性を持つ。

  • 邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。
  • 邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるため、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちがまちがっているためそうした衝突が起こるのだと考える。

 なぜ、このようなことが起こるのか、著者は原因は良心の欠如ではないと述べている。

邪悪な人たちは、自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をする。

 彼らは、自分の完全さを示すため、虚偽の完全さを演出するのである。この悪の心理学的問題の中核には、ナルシシズムがある。この辺りは以前書いたフロムにも出てきていた。これは「悪性のナルシシズム」であり、決して屈服することのない意志でもある。なんか「鉄の意志」みたいな感じだが、尊大なプライドであり傲慢な完全性自己像である。
 3つ目の話は、「上流階級の抑うつ病の子」の話である。これがつらい。ざっくりいうと、子どもは抑うつ病だが今の学校が気に入っており、両親に問題があると考えた筆者は、両親の治療を提案した。両親は息子が改善せず、先天的な問題があるのではと話始めた。ここで筆者が言う(ブチ切れる)

「いいですが。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるように見えることです」

もちろん、両親はこれに従わず、しかも子どもを転校させてしまう。著者が今の学校を続けるようにアドバイスしたにもかかわらず。

 これでざっと半分くらいである。すごく勉強になった一冊だった。私が経験し対応に苦慮した生徒や保護者には、こういった人が含まれていた。その多くが嘘を幾重にもつき、下手くそな私は、言った言わないの話になってしまっていた。そして親であれば平気で子ども(生徒)を悪い意味で使う。「(不登校の生徒なのに)それならば、子どもをもう学校に行かせませんから」とか。「ん??、俺は何のために電話をこの人にかけたのだ?」と確認してしまう。何度も「それでいいです」と言いたくなるが、そこはなんとか我慢した。たぶん、保護者も悪気はない。嘘ばかりつく子どもも悪気はない。けど、全体として大変な問題を引き起こしている。たぶん、これを「邪悪」と呼んでいいのだろう。
 対応は非常に難しくなる。子どもが困っているのに、さも自分が困っているようにすり替え、その責任を学校や担任、同級生に着せる。そうなると大概、子どもをどうするか、ではなくて、誰がいつ謝罪するかという話に変わっていく。力のある教員は受け入れ立ち向かい、導いていけるのだが、よほどの百戦錬磨でないと難しい。
 この本はそういったときに役立たないかもしれない。けど、その邪悪さを理解し、分析を生かして対応すれば、少しは前進するかもしれない。たぶん今後もくり返し読むだろう。