アンダーグラウンド

アンダーグラウンド 2枚組 [DVD]

アンダーグラウンド 2枚組 [DVD]

1941年から始まった旧ユーゴスラヴィアの戦いと動乱の歴史を、マルコとクロという二人の男を通して描いた作品。41年、ユーゴ王国はナチス・ドイツに侵略された。クロを誘ってパルチザンに参加したマルコは、自分の祖父の地下室に弟やクロの妻などをかくまう。やがて重傷を負ったクロも地下室に運び込まれて……。95年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。

 数ヶ月前にTSUTAYAで発見して気になっていた映画。今回改めて探したら、なかなか見つからず、店員さんに探してもらった。よく内容も確認していなかったので、あきらめようとも考えたけど、観られて良かった。名作です。
 映画の中で何度も何度もジプシーブラスが流れる、乗りが凄い。はちゃめちゃで破天荒、凄まじい勢いとバイタリティ、なんか人間の生命力が全面に出ていた。それでいてストーリーは凄く重い。セルビアへのナチスドイツの侵攻、パルチザンの戦い、その後のユーゴ内乱まで、非常に長期間を扱っている。全体が3時間近くあるのも、ある意味しょうがない。正直いうと、途中だれた。主人公のマルコが地下にクロ達を幽閉したまま、ナタリアと結婚して英雄になっている辺りがきつかった。「どうすんの、この後。真実を伝えられないじゃない!」っていうのがきつくなり、観ていられなくもなっていった。
 けどそこからの展開には圧倒された。ナタリアの暴走から、マルコの見せかけの自殺、クロがアンダーグラウンドから出る、ここからはイヴァンに心を動かされた。イヴァンが地下道を抜けて(さすがにドイツからセルビアまでは繋がってないと思うが…)セルビアに着いたら、今度は内戦が始まっていた。そこにはマルコとクロが、違う立場で関与していた。「もう戦争はいいだろ!」と映画を観てることを忘れてしまうほど、本気で思ってしまった。そう、戦争はもういい…。マルコはイヴァンに殺され(ここはちょっと陳腐だったけど)、イヴァンは、自分がヨヴァンの結婚式のために作ったような教会で自殺してしまう。そしてマルコとナタリアは、何も知らないクロの指示によって殺害されてしまう…。パスポート?で二人に気づいたクロは、燃えながら動き続ける二人の遺骸が乗った車いすを止めようと試みる。
 最後は、みんなでハッピーエンド。マルコに対して「許してやる、けど忘れないからな」と念を押すクロ。そう戦争がなければ、またはクロの妻が亡くならなければ、または…、みんな幸せになれたかもしれないのに。イヴァンが最後に言う

「苦痛と悲しみと喜びなしでは,子どもたちに伝えられない。昔あるところに国があったとは」

 そう、そうなんだよ、ユーゴスラヴィアはそこにあったはず。確かに、自分を「ユーゴスラヴィア人」と思っている人は少なかった。けど人々が平和に暮らしていた…。けど、そこには苦痛と悲しみが積み重なってしまった。なんかそんな風に思ってしまった。オシムも未だに追っている。民族は違えど、みんなが仲良くできる国があるはずだと…。
 ユーゴ内戦は知れば知るほど、誰が悪かったのかよくわからなくなる。ミロシェヴィッチは死んでしまった。セルビアは国際的に批判された。けど、これもボスニア側が依頼した広告代理店ルーダー・フィン社が関与してアメリカ世論が誘導された結果だ。内戦当時は、お互いがお互いを殺しあった、そこに誰が正義で誰が悪とかはない。監督のクストリッツァセルビア系だとかも問題ではない。その国で生きた人、その国を思う人が、自分の感じたままに映画を作った。
 溢れんばかりの生と、悲劇的な死、戦争の悲惨さ、祖国を思う気持ち…、言葉にするのは難しいが、まさに「当時」が映画に描かれていたのだと感じた。

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

平気でうそをつく人たち

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

「邪悪」を分析する心理学の本です。

悪を直視できなければ、人間の悪をいやすことなど期待できない。

 「嫌な話」はあるものだ。人に迷惑をかけた話やミスした話、あほな話など、失敗談は酒のつまみに最適だ。けど、聞くのも「嫌な話」っていうのはある。聞いたとき、なんとも言えない嫌な気持ちにしかならない話が…。けど、そこにこそ、人間社会の暗い部分が表れている。
 最初の話は「悪魔と契約した人の話」である。悪魔なんて…と考えていた私に、悪魔と契約することをまざまざと見せてくれた。悪魔の話は、けっして科学的ではない。しかし、もし科学が物事をあらゆる角度から客観的に分析する学問なのだとしたら、この「悪」の問題についても研究しなくてはならないのではないか、これが著者の主張である。もちろん「悪」について研究するなら、「善」について研究する必要がある。「倫理学」の範疇ではないかと言いたくなるかもしれないが、個人的には哲学と科学は最先端で絡み合っていると思っているから問題は感じない。
 二つ目の話は、「兄が自殺してしまった弟の話」である。ここでは、その両親の無神経さ?が問題となっている。

子どもが精神科の診療につれてこられたときには、その子どもは「見なし患者」と呼ばれるのが通例となっている。〜障害の診断を進めるうちに、その障害の源が当の子ども自身にではなく、その子の両親、家族、学校あるいは社会にある、ということを発見することが多い。

 なるほど、非常に思い当たるフシがある。もちろん、子ども自身にも独特の繊細さや几帳面さ(これは結構多いかも)があり、悪循環に陥っていることも多そうだ。

子どもにとっては、親というものは神のような存在である。〜親の行動を現実的に評価することは彼らにはできない。親に間違った仕打ちをされた子どもは、通常、自分のほうが悪いのだと考えてしまう。〜子どもの発達の法則に到達することができる。〜すなわち、「子どもが親の著しい悪に直面したときには、ほぼきまって、その状況を誤って解釈し、その悪は自分自身のなかにあると考えてしまいがちだ」ということである。

 ちなみに「子ども」って何歳まで何だろうと思ったが、こんも話の弟は15歳である。そして大概こういったケースでは、親が治療を受けることはない。

健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。

 そう、逃げ出したくなる。話していたくなくなる。電話を切りたくなるのである。もちろん、それが相手の邪悪さからきているのか、自分の気持ちの問題なのか、この判断は非常に難しい。私は、特に一線を越えたときの反応が顕著にでてしまうので、余計難しい。そして邪悪な人々は、単に邪悪であるという以外の特性を持つ。

  • 邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。
  • 邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるため、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちがまちがっているためそうした衝突が起こるのだと考える。

 なぜ、このようなことが起こるのか、著者は原因は良心の欠如ではないと述べている。

邪悪な人たちは、自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をする。

 彼らは、自分の完全さを示すため、虚偽の完全さを演出するのである。この悪の心理学的問題の中核には、ナルシシズムがある。この辺りは以前書いたフロムにも出てきていた。これは「悪性のナルシシズム」であり、決して屈服することのない意志でもある。なんか「鉄の意志」みたいな感じだが、尊大なプライドであり傲慢な完全性自己像である。
 3つ目の話は、「上流階級の抑うつ病の子」の話である。これがつらい。ざっくりいうと、子どもは抑うつ病だが今の学校が気に入っており、両親に問題があると考えた筆者は、両親の治療を提案した。両親は息子が改善せず、先天的な問題があるのではと話始めた。ここで筆者が言う(ブチ切れる)

「いいですが。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるように見えることです」

もちろん、両親はこれに従わず、しかも子どもを転校させてしまう。著者が今の学校を続けるようにアドバイスしたにもかかわらず。

 これでざっと半分くらいである。すごく勉強になった一冊だった。私が経験し対応に苦慮した生徒や保護者には、こういった人が含まれていた。その多くが嘘を幾重にもつき、下手くそな私は、言った言わないの話になってしまっていた。そして親であれば平気で子ども(生徒)を悪い意味で使う。「(不登校の生徒なのに)それならば、子どもをもう学校に行かせませんから」とか。「ん??、俺は何のために電話をこの人にかけたのだ?」と確認してしまう。何度も「それでいいです」と言いたくなるが、そこはなんとか我慢した。たぶん、保護者も悪気はない。嘘ばかりつく子どもも悪気はない。けど、全体として大変な問題を引き起こしている。たぶん、これを「邪悪」と呼んでいいのだろう。
 対応は非常に難しくなる。子どもが困っているのに、さも自分が困っているようにすり替え、その責任を学校や担任、同級生に着せる。そうなると大概、子どもをどうするか、ではなくて、誰がいつ謝罪するかという話に変わっていく。力のある教員は受け入れ立ち向かい、導いていけるのだが、よほどの百戦錬磨でないと難しい。
 この本はそういったときに役立たないかもしれない。けど、その邪悪さを理解し、分析を生かして対応すれば、少しは前進するかもしれない。たぶん今後もくり返し読むだろう。

佐世保事件2

 続報があった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140731/crm14073117410019-n1.htm
 県関係者によると、女子生徒を診察した精神科医が6月10日、相談窓口がある佐世保こども・女性・障害者支援センターに連絡。精神状態の不安定さを懸念し「小学生の時に薬物混入事件を起こした。中学生になって父を殴打した。このまま行けば人を殺しかねない」と相談。小動物を解剖した例も挙げ対策を求めた。ただ、守秘義務に触れる恐れがあるため女子生徒の氏名は伏せた。

 やはり、気づいた大人はいたんだ。けど、何も変えられなかった。精神科医の人も自分でできることはしたのだろう。それ以上のことは、職業上できなかった。当たり前のことだが、医者が守秘義務を守らなかったら、安心して病院にいけない。
 もちろん制度上の不備はあるだろう。不備のない制度はない。ということは、この気づきを生かすためには、誰かがルールを破らないといけないということだ。今回の事件のように、大概の人が予想していないことを、制度で防げるようになっているなんてあり得ないからだ。そうすると、ルールの破り方が問題になる。
 なんだか完全に話がどっちらけになってきたが、実際に動くとなると、こういう話になると思う。とりあえず

  1. 教員が加害生徒を精神科医に通うよう促す
  2. 定期的に通うよう言われたとなる
  3. 担任も定期的に家庭訪問する

 という動きでは、今回の事件は防げない。

  1. 教員が加害生徒を精神科医に通うよう促す
  2. 定期的に通うよう言われたとなる
  3. 保護者に医者に会っていいか許可を得る(医者にアドバイスを頂きたい的に)
  4. 精神科医にひっそりと会いに行き、加害生徒の異常さを伝える

 最低限、この辺りまでやらないと。ただ4つ目は管理職的にアウトだと思う。3つ目は保護者的にアウト。ここはなんとか許可を得る必要がある。教員の説得力の見せ所。これをやると、いくつかのルールを逸脱している。精神科医から有力な情報を得るためには、精神科医にもルールを逸脱してもらわないといけない。その上で、「どうやって、この子を治療に乗せるか」という話に、やっとなる。これはすごく厳しい。教員もここまで背負いたくないし、リスクも負いたくない。下手しなくても処分される。
 制度を厳格に守ると、上記の行動はとれない。いくら大人が気づいたとしても、そこには何重ものルールがあり、身動きがとれない。制度を破った場合、その責任は破った人が全てを負う。昔のようなあやふやさはない。今後、あやふやになることはない。となると、この制度を厳格に守らなければいけない中で、どうやって気づきを行動に移せるか、そこがポイントなのだろう。
<追記>
 尾木ママがこんなことを言っていた。
100%防げた佐世保同級生殺人事件!!心ないお役所仕事が奪った被害少女の命!! | 尾木直樹(尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ♡ブロ」Powered by Ameba

女を診察した精神科医がわざわざ『人を殺しかねない』と6月10日に最大級の警告緊急連絡相談しているにも関わらず
・匿名でわからないから
などと放置したとは!!!!
たった一人のこの県センター職員の怠慢が
・一人の少女の命を奪い
・一人の少女の未来を閉ざした
かと思うとやり場のない怒りに胸潰れそうです!!
なぜ、小学生時代の給食事件、最近の父親金属バット殴打事件まで話しているのに、つまり、名前こそ守秘義務で話していないけど、個人を特定しているのと同じなのに放置したのか!

 う〜ん、怒りを感じるのはもっともなのだが…。まず、たぶん県職員は1人ではなく、何人もの人で話し合った結論だと考えます。「個人を特定しているのと同じ」っていっているけど、たぶん県職員は個人を特定できなかったのかもしれないし。まぁ、なぜか県職員の肩を持ってしまうが。結局、現代社会はみんなアイヒマン的になっているのかもしれない(私も含めて)。与えられた職場で与えられた仕事をすることに慣れきってしまい、それを越えることを良しとしない。だから自分の仕事の善悪を判断できないのかも。
 しかし、これを「アイヒマンは悪魔だ!」とののしっても、何も解決しない。また次のアイヒマンが生まれるだけだ。尾木ママは、一体どんな反応を期待してブログを書いたのだろう。コメント欄を見たが、尾木ママに同調する論調ばかりで建設的とは言えないと思った。

個人大切に、個々の生徒にしっかり向き合わない教育運動は、この成熟して日本には馴染まないのではないでしょうか!?命の教育やるより、個々の児童・生徒の心ともっともっと先生方がふれ合える精神的時間的ゆとり作る方が大切なように思います。

 こっちのほうが大事でしょ?県職員を批判するのではなくて、命の教育をどうやるかを考えるのではなくて。上半分の語気が強めだから、この部分なんか転載先には載ってすらいないよ。
 もう一つ加えるなら、個々の児童・生徒だけじゃなく、保護者・地域の人とふれあえる、”精神的時間的ゆとり”。やっぱし、保護者と触れあうのって精神的に結構きついんすよ、慣れないと。慣れる環境を作るまでが大変。

佐世保事件。

消えちゃったので、2回目。苛つくけど、大事なことだらか…

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140727-00000045-jij-soci
 27日午前3時20分ごろ、長崎県佐世保市島瀬町のマンション一室で、同市祇園町の県立高校1年生が頭から血を流して倒れているのを、捜索願を受けて捜していた県警佐世保署員が発見した。彼女は既に死亡し、頭と左手首が切断されていた。彼女と同じクラスで、この部屋に住む女子生徒(15)が「すべて私がやりました」と殺害を認めたため、県警捜査1課は殺人容疑で逮捕した。女子生徒は逮捕後の調べに、反省の言葉は口にしていないという。同課は2人の間にトラブルがなかったかなど、殺害や遺体を切断した動機を調べている。

 なんとも凄惨な事件。被害に遭われた方にはご冥福をお祈りいたします。こういう事件を起こさないようにするため、ちゃんと考えていかなくてはいけないと思う。佐世保では過去にも凄惨な事件があった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140728-00000092-san-soci
 佐世保市は小6女児殺害事件の翌年から、6月を「いのちを見つめる強調月間」とし、毎年、各小学校で命の尊さを学ぶ講演会や、道徳の公開授業などさまざまな行事を企画してきた。長崎県教育委員会も同事件の翌年から、子供が感情を表に出せるかなど「危険信号」を数値化して、未然に非行を防ぐ試みを始めていた。事件後、県内の大人が電話で子供の声を聴く「チャイルドライン」も開設していた。

 対策はしていた。しかし届かなかった。想像だが、加害生徒は「命の大切さを知っていた」と思う。けど、「命を大切にする」ことはできなかった。ここには絶望的なほどの違いがある。
 加害生徒の「異常さ」も殊更報道されがちである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140728-00000521-san-soci
殺人容疑で逮捕された同級生の少女(16)は周囲から「文武両道で多才」と評価される一方、「暗く、変わった子」とも見られていた。昨年秋に母親が亡くなって以降、生活が激変していたといい、県警は事件に至った背景も含め、慎重に調べを進める。

 「文武両道で多才」な上、「人格も素晴らしい」人はほとんどいないと思う。なぜなら周囲の全ての人に「人格が素晴らしい」と評価されることはほとんどないからである。だから、大概の人は「変わった人」である。上記の記事には他にも書かれている。

ただ、学校関係者によると、少女は小学生時代に同級生の給食に異物を混ぜる問題行動を起こしていた。中学校では小動物の解剖に夢中になっているという噂が広まり、「少し浮いた感じになっていた」という。

 この「異物」は塩素系薬剤だそうだ。小学生でこんなことをするのは確かに変わっている。見ようによっては、頭がいい印象を受ける。少なくとも私が小学生の頃は、「塩素系薬剤を入れよう」という発想がない。せいぜい消しゴムのカスを入れるくらいだ。「解剖に夢中」も確かに変わっている。ただこれも知的好奇心の表れだと判断もできる。
 このように「加害生徒の異常さ」がかなり早い段階でニュースになっている。加害生徒は良い面でも変わった面?でも有名だったのかもしれない。ここで私が1つ確信したことは、加害生徒の「異常さ」について、周りの大人の誰かは気づいていたということだ。もちろん私の確信なので、なんら説得力はないが。ニュース番組で、「小学生の事件のとき、きちんと学校が指導できていたかが問題です」と言っていたが、この人は何をもって「きちんとした指導」としているのか不明だった。教えて欲しいくらいだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000009-sph-soci
 捜査関係者によると、女子生徒は「人を殺してみたかった」と供述。「遺体を解体してみたかった」という趣旨の供述もしているという。また、遺体は首と左手首が切断されていた以外に、腹部が大きく切り開かれていたことが、関係者への取材で分かった。

 この発言は確かに異常である。ただし上記にも書いたが、「人を殺してみたかった」ということと、「人を殺すこと」は絶望的なほどの違いがある。多くの人が「殺してやる」と思ったことがあるだろうが、実際に行動に移す人はほどんどいない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000003-mai-soci
逮捕された女子生徒(16)は高校に進学した今年4月から、市内に暮らす両親と離れて1人暮らしをしていた。長崎県教委によると、生徒の1学期の登校日数は3日。中学の時に担任だった教諭が1週間に1度、2週間に1度というペースで生徒を訪ね、食事もしながら生徒が教諭に相談することもあったという。実母はがんのため入院した後、昨秋に亡くなる。「お母さんが入院したころから元気がなくなった。ショックだったと思う」と生徒は言う。女子生徒の家庭環境の変化は更に続く。近所の住民によると、父親が今春に再婚した。

 これはある意味、非常に特殊な家庭環境だったのだろうと思われる記事だ。だから保護者が悪いとするつもりはないが、私はこの家庭環境は良くないと率直に思った。
 いろいろ書いてきたが、加害生徒の動機をいくつかに絞るつもりはない。映画「エレファント」にも描かれていたが、動機というのは私達が事件を理解するために必要なもので、加害者にとってはどうでもいいことかもしれない。ただ記事からわかってきたことは、①加害生徒は変わった面を持っていた、②家庭環境が特殊だった、の2つだけである。ただ何度も書いてきたが、「殺そうと思う」ことと「殺すこと」は絶望的なほどの違いがあるが、彼女はそれを乗り越えてしまったということだ。これは「命の大切さを知る」ことと「命を大切にする」ことの違いと似ている。この違いを教えることが、学校教育でできるのか。これが大きなポイントだと思う。正直、自信はない。「命を大切にする」ことを教えられた記憶がないし、「わかる」ものでもないと思うからである。適切かどうかわからないが、「刻む」ものだと思う。
 何かを教える際、どうでもいいことは大概どうでもいい感じで教える。ただ、それが人間にとって大事なことだと思えば思うほど、力が入り、熱を帯び、激しさを増す。本気で教えるとは、そういうことだと思う。「命を大切にする」ことを教えるとしたら、そういうことの積み重ねしかないと思う。けど、残念ながら今の学校でそれはできない。
 今、教員はひどく臆病である。生徒に「人」を教えようとすると、教員の「人格」を査定され、少しでも瑕疵があると、徹底的に否定される。こんな状況で、まともに人として大事なことを教えようとする教員はほとんどいない。リスクは高い上に、改善する見込みも少ないからだ。本気で生徒を指導して、本気で教員を支持してくれる保護者も少ないだろう。だから難しい。特に家庭の問題はなおさらだ。私も経験したことがあるが、非常に難しい。家庭の影響で生徒がおかしくなり、保護者もそれに気づいていたとしても、止められない。反対に家庭の影響もあって生徒が不登校になっているのに、保護者が変わろうとしない。相変わらず、自分の娘の彼氏を誘惑したりしている。家庭環境はみんな違い、みんな感じていること・考えていることが違うから、介入できないのだ。
 こういう事件が起こるたびに、ニュースになる。けど、すぐ流れていく。「命の大切さを教える」ことと、「命を大切にすること」は違うのに、それをどうするのか。少なくとも、この問題に対して、学校は無力である。どうすべきか、誰もわからない。だからみんなで真剣に考えなくてはいけないのだと思う。

深まる断絶 ガザ 戦闘の行方

深まる断絶 ガザ 戦闘の行方を見た。
 まさに憎悪の連鎖、これを引きちぎれるのは他者に対する想像力だと思うのだが、人はそこまでやさしくなれないものなのか。自分の娘が被害に遭っていたら、私は仕返しをとどまることができるのか、非常に難しい。
 このハマスイスラエルの構図が、近い将来東アジアで起こらないことを願う。日本はハマスイスラエルか、一体どっちになるのか、たぶん時期によって変わると思うが…。そんなことを考えながら見てしまった。

学生との対話(小林秀雄)

学生との対話

学生との対話

 小林秀雄は「考えるヒント」を読んだことがあった。文の底に流れる思想が重厚で、読み応えがあった。これも読みやすいが、読み応えがあった。

彼(本居宣長)の歴史観で一番大切なところは、歴史と言葉、ある国の歴史はその国の言語と離す事ができないという考えです。

 本に収録されている「文学の雑感」には、「山桜」と「染井吉野」の違いなどについて述べられている。同じ「桜」といっても、「山桜」と「染井吉野」は全く違い、しかも「桜」の重要度が今と異なっていたという内容だった。ここには同じ「桜」でも、時代によって全く意味(社会的にも)が異なっているということだ。同時にこうも述べている。

今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです。歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験を言うのです。

 ちょっと、うれしくなった。自分が日頃から考えていることと一緒だったもので。私は授業の中で、「なぜ古典を学ぶか」という話をする。それは言語が1つのアイデンティティになりうるし(ドーデの「最後の授業」)、古典でないと「当時の情感」が思い起こされないからだ。我々は言語で物事を考える。つまりその言語がないと、「当時の情感」はわからない。それはつまり、当時の歴史を知らないということだと。だからできるだけ、リアリティーを持たせられるように工夫する。ただ申し訳ないことに、まだ「古えの口ぶり、手ぶりがまざまざと目に見えるように」はなっていないけど。

歴史を知るというのは、みな現在のことです。〜古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の動きなのです。

 「信ずることと知ること」も収録されている。2つも。

理性は科学というものをいつも批判しなければいけないのです。科学というのは人間が思いついた1つの能力に過ぎないということを忘れてはいけない。〜今は昔のように狐憑きなどというものはない。しかし、ノイローゼ患者はいっぱいいる。あああれはノイローゼだというレッテルを貼るだけです。

 これもちょっと、うれしくなった。授業の中で、「科学は思想の1つだ」という話をしていたから。つまり科学が信用されているのは、人々が科学を信じているからだと。最近、発達障害で「アスペルガー」とかがはやっている。そのうち「アスペルガー」という障害区分は無くなるのに。はやってしまったおかげで、同僚や生徒に対して「アスペルガーっぽい」という人が増えた。自分(達)と違う行動原理を持っている人に、レッテルを貼って優越感に浸っているのかわからないが。いろいろな人がいる、という前提が欠落すると、こういう感じになるのかなぁ。「空気を読めない」とかいうけど、実際の「アスペルガー」の子はそんなレベルじゃないしね。

信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人のごとく知ることです。〜知るということは、いつでも学問的に知ることです。〜しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。〜信ずるという力を失うと、人間は責任をとらなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです、自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だからイデオロギーは常に匿名です。

 小林秀雄が「今」生きていたら、どんなことを言ったのだろうと想像してしまう部分です。ここ数年の日本社会の変化を、まさに的確に分析しているかのような言葉。考えさせられます。

日本を愛するなら、どうしてあんなに徒党を組むのですか。〜日本というのは僕の心の中にある。諸君の心の中にみんなあるんです。会を作っても、それが育つわけはないからです。

 そう思います。なんか前回書いた「ツァラトゥストラ」と同じようなこと言っているなぁ。彼は「超人」か??

100分de名著「ツァラトゥストラ」

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

 数年前、いやにはやったニーチェ。「超訳ニーチェの言葉」という本だが、ニーチェの名を日本に知らしめた。ニーチェの言っていることとは違かったかもしれないが。まあ、私は読んでもいないけど…
 導入で述べられていた「実存派」と「社会派」。ヘーゲルは「社会派(社会をよくしたい)」で、ショーペンハウアーは「実存派(自分がどうあるか)」。ニーチェは思いっきり、「実存派」ですな。私はどっちだろう…
《悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってでてきた》
 ディオニソス的とは闇と陶酔、アポロン的とは明るく秩序がある。

ソクラテスは「よく生きるためには何がよいことかを知らねばならない」と説きますが、ニーチェにいわせれば、知ができることは限られており、人間が生きるうえでぶち当たる深遠な苦悩には届かない。

 本文にあったのだが、これも他で読んだものと繋がる。
 さて、まずは「ルサンチマン」、「うらみ・ねたみ・そねみ」である。
《そうだった、これこそ意志の歯ぎしりであり、もっとも孤独な悲哀である。すでになされたことに対する無力−意志はすべての過ぎ去ったものに対して怒れる傍観者である》
 私が授業で触れてしまうのが、これである。このルサンチマンキリスト教を生んだという強烈な主張は、驚嘆に値する。キリスト教の結果、「貴族的価値評価法(自分の力が自発的に発揮されたときの自己肯定)」から「僧侶的価値評価法(神からみて正しいか)」へと価値が転換していき、しかも「僧侶的価値評価法」には強い他者を否定することで自己肯定する、というルサンチマンが隠されていると述べる。しかもこのルサンチマンの結果、自発的に行う創造性が抑圧されたとまで主張する。
 もちろんキリスト教は、人々を平穏に暮らさせてきた面があった。けど、それが崩れてくると、それじゃダメだ!ってなったわけだ。
 二点目は「神は死んだ」。これは「自分たちが神を殺した」ということ。キリスト教は「誠実であれ」と教えたため、「神は人間が作り出したもの」ということに人間が気づいてしまったと。ここから「科学的思考」や「自由な精神」が一層生まれていく。
「神の喪失」、これは「絶対的な価値の喪失」である。人々が目標を喪失してしまうことを、ニーチェは「ニヒリズム」と呼んだ。
ニヒリズムとは何を意味するのか?−至高の諸価値がその価値を剥奪させること。目標が欠けている。『何のために』の答えが欠けている》
 こうした社会では「末人」が生まれる。これは「憧れをもたず、安楽を第一とする人」。彼らには、創造すること、本気で何かを求め実現しようとすることに対する絶望がある。

『おお、ツァラトゥストラよ、おまえ、知恵の石よ!おまえはおまえ自身を高く投げた、しかし投げられた石はすべて−落ちる』

 知っています。けど、それでも投げなきゃいけない石はあると信じたい。と思っていたら…
《より深くニヒリズムの本質に迫っていくと、そもそも最高価値を立てることじたいが誤っており》
 って言われたら、もう黙るしかない。けど、石を投げることしかできない。
 三点目「超人」。「超人」とは「高揚感と創造性の化身」だそうだ。

「一個の高揚した感情そのものであるような人間、比類なく偉大な気分の権化であるような人間」

 これは三段階に分かれるそうだ。1つめは「ラクダ」。自分んから求めて重い荷物を担おうとする「忍耐強い精神」。2つめは「獅子」。龍が「一切の価値はすでにつくられてしまっている。汝なすべし」というのに対し、「われ欲す(既存の価値と戦う)」。最後が「幼子」。ただひたすら自分の創造力に身をゆだねる。ということは、人は皆、超人「だった」ということか。
 最後は「永遠回帰永劫回帰)」。

『おまえは、おまえが現に生き、これまで生きてきたこの人生をもう一度、さらに無限にくり返し生きねばならないだろう。』

これは自分の生を、絶対的に肯定することなのだろう。
《人生のなかで一度でもほんとうに素晴らしいことがあって、心から生きていてよかったと思えるならば、もろもろの苦悩も引き連れてこの人生を何度も繰り返すことを欲しうるだろう》
 そんな人生を送りたい。いや、送れるはずだ。なぜなら、今、二週目だから。ほんとにいろいろ考えさせられる一冊でした。