100分de名著「ツァラトゥストラ」

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

 数年前、いやにはやったニーチェ。「超訳ニーチェの言葉」という本だが、ニーチェの名を日本に知らしめた。ニーチェの言っていることとは違かったかもしれないが。まあ、私は読んでもいないけど…
 導入で述べられていた「実存派」と「社会派」。ヘーゲルは「社会派(社会をよくしたい)」で、ショーペンハウアーは「実存派(自分がどうあるか)」。ニーチェは思いっきり、「実存派」ですな。私はどっちだろう…
《悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってでてきた》
 ディオニソス的とは闇と陶酔、アポロン的とは明るく秩序がある。

ソクラテスは「よく生きるためには何がよいことかを知らねばならない」と説きますが、ニーチェにいわせれば、知ができることは限られており、人間が生きるうえでぶち当たる深遠な苦悩には届かない。

 本文にあったのだが、これも他で読んだものと繋がる。
 さて、まずは「ルサンチマン」、「うらみ・ねたみ・そねみ」である。
《そうだった、これこそ意志の歯ぎしりであり、もっとも孤独な悲哀である。すでになされたことに対する無力−意志はすべての過ぎ去ったものに対して怒れる傍観者である》
 私が授業で触れてしまうのが、これである。このルサンチマンキリスト教を生んだという強烈な主張は、驚嘆に値する。キリスト教の結果、「貴族的価値評価法(自分の力が自発的に発揮されたときの自己肯定)」から「僧侶的価値評価法(神からみて正しいか)」へと価値が転換していき、しかも「僧侶的価値評価法」には強い他者を否定することで自己肯定する、というルサンチマンが隠されていると述べる。しかもこのルサンチマンの結果、自発的に行う創造性が抑圧されたとまで主張する。
 もちろんキリスト教は、人々を平穏に暮らさせてきた面があった。けど、それが崩れてくると、それじゃダメだ!ってなったわけだ。
 二点目は「神は死んだ」。これは「自分たちが神を殺した」ということ。キリスト教は「誠実であれ」と教えたため、「神は人間が作り出したもの」ということに人間が気づいてしまったと。ここから「科学的思考」や「自由な精神」が一層生まれていく。
「神の喪失」、これは「絶対的な価値の喪失」である。人々が目標を喪失してしまうことを、ニーチェは「ニヒリズム」と呼んだ。
ニヒリズムとは何を意味するのか?−至高の諸価値がその価値を剥奪させること。目標が欠けている。『何のために』の答えが欠けている》
 こうした社会では「末人」が生まれる。これは「憧れをもたず、安楽を第一とする人」。彼らには、創造すること、本気で何かを求め実現しようとすることに対する絶望がある。

『おお、ツァラトゥストラよ、おまえ、知恵の石よ!おまえはおまえ自身を高く投げた、しかし投げられた石はすべて−落ちる』

 知っています。けど、それでも投げなきゃいけない石はあると信じたい。と思っていたら…
《より深くニヒリズムの本質に迫っていくと、そもそも最高価値を立てることじたいが誤っており》
 って言われたら、もう黙るしかない。けど、石を投げることしかできない。
 三点目「超人」。「超人」とは「高揚感と創造性の化身」だそうだ。

「一個の高揚した感情そのものであるような人間、比類なく偉大な気分の権化であるような人間」

 これは三段階に分かれるそうだ。1つめは「ラクダ」。自分んから求めて重い荷物を担おうとする「忍耐強い精神」。2つめは「獅子」。龍が「一切の価値はすでにつくられてしまっている。汝なすべし」というのに対し、「われ欲す(既存の価値と戦う)」。最後が「幼子」。ただひたすら自分の創造力に身をゆだねる。ということは、人は皆、超人「だった」ということか。
 最後は「永遠回帰永劫回帰)」。

『おまえは、おまえが現に生き、これまで生きてきたこの人生をもう一度、さらに無限にくり返し生きねばならないだろう。』

これは自分の生を、絶対的に肯定することなのだろう。
《人生のなかで一度でもほんとうに素晴らしいことがあって、心から生きていてよかったと思えるならば、もろもろの苦悩も引き連れてこの人生を何度も繰り返すことを欲しうるだろう》
 そんな人生を送りたい。いや、送れるはずだ。なぜなら、今、二週目だから。ほんとにいろいろ考えさせられる一冊でした。