100分de名著「饗宴」

プラトン『饗宴』 2013年7月 (100分 de 名著)

プラトン『饗宴』 2013年7月 (100分 de 名著)

 またまた100分で名著。ガッツリ読むと難しいしつらいけど、これならスッと読める。授業に使うには最適!
 「本質を避ける」。最近、なんかそんなことを感じる。職場の会話もそうだし、生徒同士の会話もそう。喧々諤々やれってまでは思わないけど、例えば授業で何を教えるか、とか職場でそういう話にはならない。仲の良い同僚と飲みながらの会話が精一杯。生徒同士もそう。例えば部活で「勝ちたいならどうすべきか」、とかいう勝つための最低の会話もままならない。作戦とかではなく、部活にどう取り組むかとか、日常生活をどう過ごすかとか。
 哲学は日常的な問いから始まる。そこから日常を越えて、真理に迫っていくものである。そういう意味で、今、必要なことなのかもしれない。
 「饗宴」は飲み会での会話である。そのお題は「愛の神エーロスへの賞賛」である。「饗宴」の登場人物は、みなそれぞれエーロスを褒め称える。「愛は人を輝かせる」(よく恋する女性は美しい的な?)や「徳のために行う愛がすばらしい」とか、「愛は調和だ」とか…。ここでアガトンが言う、
《そのお方は、「人々のなか、平穏を、大海原に、凪の静けさ風邪の寝床を、不安には、深き眠りを」作り賜うた。〜》
 上手に、そして美しく…。しかしソクラテスが引っかかる。しかも賛美ではなく、問答で。
ソクラテス「エーロスは、愛であるその対象を、欲求しているのか、いないのか」アガトン「もちろん、欲求しています」ソクラテス「欲求しているその対象を持っているときに、それを欲求し愛するのか。それとも、持っていない時にかね?」「どうやら、持っていない時です。」》
 つまり、エーロスは「美への愛」であり、エーロス自身はそれを持っていないことを明らかにしていく。するとエーロスは、美を持っていない、欠乏している者ということになる。さらにソクラテスは、過去に問答したディオティマと二人で「エーロスは神ですらない」と結論づけます。エーロスは人と神の中間者であると。エーロスの本質は「欠如と愛求」という二面性から成り立っている。この中途半端な立場を自覚しているエーロスは、強烈に美や善を求め続ける存在となっていく。
《「エーロスは、知恵と無知の真ん中にいるのです。どの神々も知を愛し求めることはなく、知者になろという欲求もありませんが、−もうすでに知者なのですから−また、無知の人々も知を愛し求めることはなく、知者になろうと欲求もしません。まさにこの点が、無知の頑固さなのです。つまり美しくも良くもないのに、自分には十分に知恵があると思いこんでいることが。」「ディオティマよ。では知を愛し求めるものとは誰でしょう。知恵ある者でも無知なものでもないとしたら?」と私(ソクラテス)は言いました。「それは子どもにも明らかですよ。それら両者の中間の者で、その中にはエーロスもいるのです」と彼女は言ったのです。》
 これは人間もそうですな。だからこそ「無知は罪」なんだ。
 ここからさらに、エーロスの働きについて、
《愛(エーロス)の働きとは、肉体でも、魂でも、美しいものの中で子どもを生むことです》
 ここの「子ども」は、単なる子どもという意味だけではない。「魂の出産」もある。それは「言論」だったり、文学や芸術、思想だったり。
《死すべきもの(人)にとって、出産は永遠なるもの、不死なるものだからです。エーロスが、善いものが常に自分自身のものであることを求めている以上、善きものと共に不死を欲求するのが必然です。したがって、こうした議論から、愛が不死をも求めているのは必然なのです》
 ここから「美への愛」がイデアへとステップアップしていく。
 最近、晩婚化が進み、少子化に拍車がかかっている。さまざまなライフスタイルがあり、熟年婚のように子どもを作らない生活や、独身でキャリアを積む生活もある。価値観が多様化し、それが尊重される社会となっている。ただ「結婚」や「家族」といった人生のテーマに、1人1人が正面から対話できているのだろうか。金銭面や自分のしたいことをするといった、表面的な話ではなくて…。「人」として、「共同体」として、対話していく必要があるのかもしれない。