学生との対話(小林秀雄)
- 作者: 小林秀雄,国民文化研究会,新潮社
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 単行本
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本に収録されている「文学の雑感」には、「山桜」と「染井吉野」の違いなどについて述べられている。同じ「桜」といっても、「山桜」と「染井吉野」は全く違い、しかも「桜」の重要度が今と異なっていたという内容だった。ここには同じ「桜」でも、時代によって全く意味(社会的にも)が異なっているということだ。同時にこうも述べている。
今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです。歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験を言うのです。
ちょっと、うれしくなった。自分が日頃から考えていることと一緒だったもので。私は授業の中で、「なぜ古典を学ぶか」という話をする。それは言語が1つのアイデンティティになりうるし(ドーデの「最後の授業」)、古典でないと「当時の情感」が思い起こされないからだ。我々は言語で物事を考える。つまりその言語がないと、「当時の情感」はわからない。それはつまり、当時の歴史を知らないということだと。だからできるだけ、リアリティーを持たせられるように工夫する。ただ申し訳ないことに、まだ「古えの口ぶり、手ぶりがまざまざと目に見えるように」はなっていないけど。
歴史を知るというのは、みな現在のことです。〜古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の動きなのです。
「信ずることと知ること」も収録されている。2つも。
理性は科学というものをいつも批判しなければいけないのです。科学というのは人間が思いついた1つの能力に過ぎないということを忘れてはいけない。〜今は昔のように狐憑きなどというものはない。しかし、ノイローゼ患者はいっぱいいる。あああれはノイローゼだというレッテルを貼るだけです。
これもちょっと、うれしくなった。授業の中で、「科学は思想の1つだ」という話をしていたから。つまり科学が信用されているのは、人々が科学を信じているからだと。最近、発達障害で「アスペルガー」とかがはやっている。そのうち「アスペルガー」という障害区分は無くなるのに。はやってしまったおかげで、同僚や生徒に対して「アスペルガーっぽい」という人が増えた。自分(達)と違う行動原理を持っている人に、レッテルを貼って優越感に浸っているのかわからないが。いろいろな人がいる、という前提が欠落すると、こういう感じになるのかなぁ。「空気を読めない」とかいうけど、実際の「アスペルガー」の子はそんなレベルじゃないしね。
信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人のごとく知ることです。〜知るということは、いつでも学問的に知ることです。〜しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。〜信ずるという力を失うと、人間は責任をとらなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです、自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だからイデオロギーは常に匿名です。
小林秀雄が「今」生きていたら、どんなことを言ったのだろうと想像してしまう部分です。ここ数年の日本社会の変化を、まさに的確に分析しているかのような言葉。考えさせられます。
日本を愛するなら、どうしてあんなに徒党を組むのですか。〜日本というのは僕の心の中にある。諸君の心の中にみんなあるんです。会を作っても、それが育つわけはないからです。
そう思います。なんか前回書いた「ツァラトゥストラ」と同じようなこと言っているなぁ。彼は「超人」か??