情報の変質とマス=コミュニケーション

先日の「朝まで生テレビ」でテレビについてやっていた。まあ「朝生」に対しては、必要以上に期待していない部分があったが、さすがに報道被害実名報道等について議論がなかったのにはがっかりした。主な話題はCMの話やジャーナリズムの話、ネットとの関係、政治との関係などであった。
一時期、犯罪被害者等基本計画に対する共同声明について、まるでなんかのキャンペーンのように一斉報道していた。しかし実際被害者たちはそんなことを求めてはおらず、HPにもこのようにきちんと意見を載せている。なのに、そういった被害者の立場からの意見を全く無視し、自分たちの都合のよい事実のみを報道する。こういった姿勢に対して、あそこにいた若者たちにつっこんで欲しかったのだが。
以前どこかの小学校の児童が殺害されたという事件のとき、学校側は登下校中の取材を自粛するように求めたとか。その児童の家族も同様の要望をしていたのだが、マスコミは一切を無視してひたすらカメラを回し続けた。マスコミの身内が犯罪を犯した場合だと、せいぜい名前と写真くらいで、同僚に被疑者についての印象を聞いたり、上司に印象を聞いたりということをほとんどしないくせに。
私は、テレビの普及によって情報の形が変化し、インターネットによってさらにその変化が加速したと考えている。どう変化したかというと、情報が異常なほどのスピードで過ぎ去っていくようになったということである。新聞や雑誌といった形で情報が提供されている場合は、紙という媒体を通して情報が流通するため、意図的に破棄しないかぎり、その情報はとどまっている。しかしテレビやネットの場合だと、意図的に保存しないかぎり、情報は過ぎ去っていってしまうということ。
この情報の質的変化は、結構恐いと思う。それこそ「1984年」に出てくるかのような状態に近いのだろう。例えば「犯罪被害者等基本計画に対する共同声明」について、未だに覚えている人はどのくらいいるだろうか。さらに湾岸戦争のときの石油にまみれた鳥が嘘だったということを知っている人はどのくらいいるだろうか。JR西日本脱線事故のとき、新聞の一面に「置き石」と出ていたのに、いつの間にか変わってしまったことに気づいている人はどのくらいいるのだろうか。
人間は忘れる動物なので、少しくらいはしょうがないと思うが、情報が頻繁に更新されて、洪水のように流れている今の状況で、一つ一つの情報をしっかり保持している人は少ないと思うんです。だから、テレビで謝罪報道?的なことをしたところで、人々はそれに気づかないし、気づいたとしても忘れてしまうんだと思う。本気で悪いと思っているのなら、Nasionalの石油ストーブのように、CMにバンバン入れたり、新聞にでかでかと広告を載せたりするだろうに。
最近本当に1984年のような世界が現実味を帯びてきている気がして恐ろしい。だからこそ、高等学校の目標には「健全な批判力」という文言を入れているのだろうけど。これをしっかりと指導していかないと、ほんと恐ろしい社会になりそうだ。