ミシェル=フーコー

ミシェル・フ-コ- (講談社現代新書)

ミシェル・フ-コ- (講談社現代新書)

学生時代に読んで、俺を哲学関連の書籍から遠ざけさせた本。当時はほとんど理解できなかったが、今は以前より読めたと思う。
フーコーは自分自身から自由になること、同一性に拘束されないことを目指したようだ。同一性というと、生徒理解なんかでふれたりするけど、彼にとってはあくまで慣習や法や制度が要求するもので、人の生存様式をしばるものであってはならないものだった。
彼は思考の場(エピスメーテ)を分析するために、西欧文化のエピスメーテの歴史を調査した。この部分は途中まである程度理解できたと思うが、サド侯爵の件くらいからわけがわからなくなってしまった。また言語も社会の慣習や規則の影響を受けているため、フーコーは言語の分析も行った。ただ言語そのものを分析するため、言語の存在を問題とした。その方法は、言語の不在である外(狂気など?)について分析している。最後に個人を主体化する近代社会の権力装置の分析として、「告白」や「監獄」について論じている。

まあ俺なんかにまとめられるわけがないわけで、このあたりが限界。つーか間違っていると思うし。ただ印象としては、真理に到達する方法として、消去法のような形で接近しているというイメージを持った。やはりもう一回読むか、諦めて簡単そうなやつを読むかしたほうがよいかも。