ローマ(帝政への過渡期)

イタリア半島の統一

エトルリア人を共同の敵とするラテン都市同盟を結成したローマは、前4世紀頃までにエトルリア人をほぼ完全に征服した。他の都市がローマに反抗したため征服活動を行い、前272年タレントゥムを陥れてイタリア半島を統一した。これらの都市は自治都市自治権と市民権の一部のみ)と同盟都市自治権のみ)に分けられた。ローマはこれらの諸都市と個別の条約を結び、それぞれの待遇を異にする分割統治を行って団結・反抗を防ぎ、軍事・外交の宗主権を握って諸都市を支配した。またアッピア街道のような軍用道路を各地に建設した。

ポエニ戦争

地中海への進出を図って農業国から商業国への転換を図っていたローマは、地中海の覇権をかけてフェニキア人の植民地カルタゴポエニ戦争を行った。
前264年(第一回)に始まった戦争は、ローマ側の勝利に終わり、ローマは最初の属州(海外領土)のシチリアを獲得した。
218年(第二回)には、カルタゴハンニバルがスペインからアルプスを越えてイタリアに侵入した。前216年のカンネーの戦いに大勝し、一時ローマ市は危機に陥った。ローマのスキピオカルタゴ本国を攻め、前202年のザマの戦いに大勝したため、ローマの勝利となった。これにより、ローマはカルタゴ植民地スペインを獲得した。
前149年(第三回)に国力を回復したカルタゴにローマが侵入し、カルタゴを滅ぼした。
これは民主制のローマ VS 専制制のカルタゴという形だったので、ペルシア戦争と同様、自由と専制西方と東方という対立の構図をなした。

ポエニ戦争と平行して東方にも進出した。ギリシアやシリアを征服し、前31年にはアクティウム沖の海戦でエジプトも征服して地中海をローマの内海とした。このようにポエニ戦争以後の戦争は、すべて海外に領土を拡大する略奪戦争であった。属州となった各地域は、派遣された総督の下で、徴税請負人の搾取を受けることとなった。

社会の変動

征服戦争によって増大した国有地は貴族によって独占され、奴隷を使役し、牧畜や果樹栽培を行う大土地経営(ラティフンディア)を生んだ。ここで生産された安価な穀物中小農民の没落を早め、貧富の差はますます大きくなった。重装歩兵として出陣した平民の多くは、長期不在のため土地は荒廃し、輸入穀物と奴隷労働に圧迫され、結局ローマ市に残って無産市民となった。貴族は無産市民を「パンと見せもの」で自由に操り、政治を左右した。また奴隷もスパルタクスの反乱のように大規模な反乱を起こし、社会不安を増大させた。
商業の禁止された元老院議員に代わり、騎士階級(エクイテス)が実業家として活躍した。彼らは様々な事業を独占して利益を得、政界に進出した。これに対して元老院議員は属州総督などの官職を独占し、特に保守派は閥族を形成した。それに対して平民会を基盤とした平民派が形成された。
自由農民の没落は共和制の危機をもたらし、自作農復興とローマ軍再建が重要な政治課題となった。前133年ティベリウスグラックスは、リキニウス法を復活して無産市民に土地分配して自作農の創設を図ったが、閥族派の反対にあい暗殺された。弟のガイウスは大規模な土地再分配法を提案して、穀物法(貧民に穀物を安く提供)などを定め、ローマ市民権の拡大を図ったが、閥族派武装決起にあい自殺した。
閥族派と平民派の対立が激化し、1世紀に及ぶ混乱の時代が現出した(内乱の1世紀)。市民兵の原理が崩壊していたため、各派の有力者は無産市民による傭兵の私兵団を組織した。これにより将軍は投票集団となった私兵団の支援によって安易にコンスルその他の官僚につくことができた。まず平民派のマリウスユグルク戦争の勝利により政権を握り、ついで閥族派スラ小アジアポントス王ミトリダテスの反乱を収めて政権を握った。こういった軍閥の力が強大になり、元老院はもはや有名無実化していった。