ローマ帝国の成立

三頭政治

スラの死後、閥族派の首領ポンペイウスは、ミトリダテスの反乱を鎮圧して名声を得た。しかし元老院に冷遇されたため、平民派のカエサル、富豪のクラッススと同盟を組み。前60年三頭政治を成立させた。クラッススが死ぬと、ポンペイウスカエサルが対立し、カエサルが最終的に勝利した。カエサルインペラトル(軍司令官)の称号を元老院から与えられ、終身のディクタトル・コンスルなど文武の大権を握り、事実上の君主独裁を行った。ユリウス暦の採用、土地の再分配等を行ったが、結局共和派のブルートゥスらに暗殺された。
カエサルの死後、カエサルの養子オクタヴィアヌスと部下のアントニウスカエサル派のレピドゥスで再び三頭政治が成立した。最初にレピドゥスが失脚し、アントニウスプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラと結び、専制君主としてローマに君臨しようとした。オクタヴィアヌス元老院を尊重する態度をとって人気を集め、前31年アクティウムの海戦アントニウスを破り、エジプトを滅ぼして全地中海世界を統一した。

前期帝政の時代

オクタヴィアヌスは帰国後、自発的に命令権を元老院に返した。元老院は彼にアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を与え終身インペラトルとし、その後権力は彼に集中した。しかし自らはプリンケプス(第一人者)として、共和制の伝統を尊重した。このような政治形態をプリンキパートゥス(元首制)と呼ぶ。アウグストゥスはエジプトなどの属州を直轄領とし、その財力で皇帝直属の傭兵と官僚組織を整備した。トイトブルク森の戦いでゲルマンがローマを破ったが、ローマの平和地中海世界を包んで活気を取り戻した。

ローマの平和

アウグストゥスのあと、ネロのような暴君も生まれたが、ネルヴァ・トラヤヌスハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニウス五賢帝の時代はローマの最盛期で、領土は最大となり、経済活動も発達し、インドとの季節風貿易も行われて、香料や絹がローマにもたらされた。やがて212年にカラカラ帝全属州自由民にローマ市民権を与えて、政治・法律上の差別がなくなり、ローマ市民という意識のもと地中海は統一的世界となった。
しかしその後政治が乱れ、無力な皇帝が続いたので、軍隊が皇帝を廃立するようになった。これを人皇帝時代といい、約50年の間に20人もの皇帝が乱立した。さらに東方ではササン朝ペルシアが進出し、北方ではゲルマン民族が侵入するなど、争乱が相次いだ。