イラン文明

ヘレニズム時代の西アジア

アレクサンドロス大王の死後、西アジアの大部分を支配したのは、ギリシア系のセレウコス朝シリアである。エジプトのプトレマイオス朝とともに繁栄したが、古代ペルシア系の土候勢力が強かった。前3世紀頃、アム川上流からギリシア系のバクトリア王国が独立し、ついでカスピ海東南にイラン系のパルティア王国が独立し、シリアは前1世紀にローマに滅ぼされた。
セレウコス朝から独立したバクトリアは、インド貿易の利を望んで東西に拡張し、ギリシア風文化を西北インドに伝えてガンダーラ美術の基礎を作った。しかし前2世紀にスキタイ系のトハラ人(大夏)に滅ぼされた。大夏はのちに大月氏に臣属したが、その中からクシャーナ朝が勃興した。

イラン民族国家の成立

前3世紀頃、アルサケスによってパルティア王国が独立した。この国はイラン人を根幹とする民族国家であった。君主よりも貴族の勢力が強く、一種の封建制を成立させた。ミトラダテス1世・2世の時代を経て、約500年近く続いた。特にメソポタミアを領有し、東西交通路を支配して繁栄した。ちなみに中国では安息と呼ばれた。ローマが拡大してからは、約200年近く東西を二分して抗争を続けて弱体化し、226ササン朝によって滅ぼされた。
アルデシール1世はクテシフォンを首都としてササン朝を建国した。ゾロアスター教を国教として民族の精神統一を図った。シャープール1世の時代になると、ローマ帝国と対立しながら領域を広げた。5世紀には東方のエフタルに攻められて動揺したが、6世紀のホスロー1世のときに全盛期を現出した。彼は君主専制の基づく中央集権的官僚組織を確立し、西突厥と連合してエフタルを滅ぼした。こうして東西の陸上交通を支配した。しかし、ビザンツ帝国との抗争により弱体化し、642年ニハーヴァンドの戦いでアラブ人に敗れ、その後崩壊した。

この地域では、伝統的なイラン文化の上にギリシア・インド文化の要素も取り入れて、イラン文化圏を形成した。イラン文化は東西貿易を通じてビザンツ帝国や中国に伝わり、さらにそれが朝鮮・日本にまで及んだ。
ゾロアスター教ササン朝で国教となり、教典の「アヴェスター」も3世紀に整えられ、注釈書の「ゼンド=アヴェスター」も作られた。また宗教に寛容だったため、マニ教などの新しい宗教も起こった。ヨーロッパで異端とされたネストリウス派キリスト教も大いに栄え、唐代の中国にまで伝えられた。