インドの古典文明(統一国家の成立と文化)

統一国家の成立

アーリア人ガンジス川流域に多くの小王国を建てた。なかでも中流域のサーヴァッティに拠ったコーサラ国パータリプトラに拠ったマガダ国が優勢であった。マガダ国は、コーサラ国を抑え仏教やジャイナ教を保護して強盛を誇ったが、統一勢力とはならなかった。その後アレクサンドロス大王の退却後の混乱の中で、前317年マウリヤ朝が成立した。
マウリヤ朝の始祖チャンドラグプタは、インド人の手で初めて統一国家を建設し、都パータリプトラは花の都と呼ばれた。3代アショーカ王の時、カリンガ王国を滅ぼしデカン高原サータヴァーハナ朝朝貢させて南端を除く全インドを統一した。アショーカ王仏教を保護し、磨崖碑石柱を各地に建てた。しかしアショーカ王の死後マウリヤ朝は急激に衰え、大統一は崩壊した。
バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰えに乗じて西北インドに領土を拡大した。そのためギリシア文化が流入し、のちのガンダーラ美術の基礎を作った。その後バクトリアはスキタイ系のトハラ(大夏)人に滅ぼされ、そのトハラは月氏に滅ぼされた。


この大月氏から独立したクシャーナ朝(貴霜国)は2世紀にカニシカ王がでて最盛期を迎えた。彼は領土を拡大して西のローマ帝国や東の中国と交渉を持ち、絹の道の要路を占めた。首都プルシャプラは交通の要地として繁栄した。また仏教を保護したので、繁栄して各地に広がった。しかし王の死後、3世紀にはササン朝の侵入を受け、5世紀にはエフタルによって滅亡した。
マウリヤ朝の没落後、南インドではサータヴァーハナ朝が勢威をふるった。アラビア海及びベンガル湾に臨む諸港市を領有し、対ローマ貿易の利を収めて富強となった。ナーガールジュナ(竜樹)が出て大乗仏教を興し、マヌ法典は後世のインド・東南アジアに大きな影響を与えた。


マウリヤ朝アショーカ王が仏教を信奉し、仏典結集を行ったので、仏教は発展した。セイロン島への布教も成功し、東南アジア方面に仏教が普及する基を作った。クシャーナ朝カニシカ王も仏典結集を行い保護を与えたので、仏教は西北インドを中心に栄えた。この時代に世界宗教的な性格を持つ大乗仏教創始者竜樹)が流行した。これに対し初期の仏教を上座部仏教小乗仏教)と呼ぶ。小乗仏教は主に南アジアに、大乗仏教は北方に伝わった。
クシャーナ朝の首都プルシャプラがあるガンダーラ地方にはヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシア仏教美術が栄えた。これをガンダーラ美術という。それまで仏像は作られていなかったが、バクトリアギリシア人がガウタマ=シッダールタを人間的に彫刻したのがその初めである。

北インドの再統一

4世紀頃ガンジス川中流域にパータリプトラを首都とするグプタ朝が興り、3代のチャンドラグプタ2世のとき全盛期となった。この時代はヒンドゥー教が仏教をしのぎ、長くインドの代表的宗教となった。

6世紀頃にはヴァルダナ朝が興り、その王ハルシャ=ヴァルダナは南部を除くインドの統一に成功した。彼は厚く仏教を信奉し、これを保護した。中国(唐)の僧玄奘がきたのはこの時代である。しかしこの王の死後ヴァルダナ朝は分裂し、やがてイスラム勢力が進出してその支配下に入った。


南インドではサータヴァーハナ朝が衰えた後、7世紀頃ににはバッラヴァ朝、その後チョーラ朝などのドラヴィダ系諸国が優勢だった。イスラム勢力が進出し始めると、南インドヒンドゥーの拠点として台頭したが、16世紀にムガル帝国に征服された。

古典文化の成熟

ヒンドゥー教は仏教のように宗教体系を持たないが、ヴィシュヌ神を中心とする派やシヴァ神を中心とする派など多数の派に分かれ、現在に至るまでインド宗教の主流をなしている。
インド文学の中で二大叙事詩といわれる「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」は、グプタ時代に現在の形となった。当時休廷を中心に古典文化復興の気運が高まり、サンスクリット文学が興った。カーリダーサが現れ、戯曲「シャクンタラ」などを著した。またマヌ法典もこの時代に整備され、インド社会に影響を与えた。
仏教はグプタ時代に振るわなくなったが、なお多くの信徒がいた。教義の研究はナーランダ僧院を中心として盛んであった。「仏国記」を書いた法顕東晋)が訪れたのはこのグプタ朝であり、玄奘はヴァルダナ朝時代のナーランダ僧院を訪れた。仏教美術グプタ朝時代にガンダーラ様式を脱してグプタ様式を生み、純インド的な美を確立した。アジャンター石窟寺院エローラ石窟寺院は有名である。