中国古典文明

中国の原始文明

前4000年頃から前2000年頃に、東アジア最古の文明である原始農耕文化が発展した。一般に彩陶文化黒陶文化に分けられる。彩陶文化は磨製石器を用いて、穀物を栽培したり、豚や犬を飼育した。また甑などの灰陶や彩陶を用いた。その住民は現在の中国人と深い関係があることから、原中国人と呼ばれている。彩陶文化はその地名から仰韶文化(発見者アンダーソン)とも呼ばれる。その後、原始農耕民は大村落農耕文化である黒陶文化を出現させた。製陶技術が発達し黒陶が流行した。黒陶は薄手の精巧な土器で、鼎などさまざまな形があり、その形は殷周時代の青銅器の祖形をなしていた。ここで形成された邑(都市国家)は発達して都邑となり、国家と認められるものも生まれた。黒陶文化は発見された地名から竜山文化とも言う。

殷王朝

大小の都邑はやがて対立抗争を経て国家へと成長した。こうして生まれたのが王朝である。殷墟象形文字が発見され、それによってここが殷の都商邑であることが確実になった。前1600年から前1050年頃まで続いた殷では、祭政一致神権政治が行われていた。王は宗教的・世俗的権威を世襲して強大な権力を一身に集中していた。前1027年頃殷王朝末帝紂王のとき、西方に起こった周族の攻撃を受けて滅亡した。

周王朝

前1027年頃殷を滅ぼしたは、鎬京を首都として黄河中流域を支配した。周王は広大な土地を一族・功臣や土豪封土として与え、平時には貢物を収めることと戦時には出陣する義務を負わせた。王と諸侯の下には、卿・大夫・士と呼ばれる世襲の家臣があり、一定の封土を分封されて階層的な治者階級を構成した。これを封建制度というが、血縁制度を基礎として成立したもので、ヨーロッパのフューダリズムや日本の封建制度とは性格が違う。政治は礼を重んじる礼政一致で、周人は倫理的行為によって天意をも動かし得るとする新しい観念を打ち立てた。支配階級は宗族(姓・氏を同じくする一族)を単位として、宗法によって本家の家長が祖先の祭祀を中心として団結を図った。被支配階級は「杜」を中心とする村落共同体による結合が中心で、支配のすべてを村落共同体を通じて行い、共同体に土地を割り当て、収穫の一部を収めさせる井田法が行われた。
  
周は王室と諸侯の血縁関係が薄まるにつれ統制力がゆるみ、前8世紀頃には周王朝をしのぐほどの勢力をもつようになった。この時期に北部から犬戎の侵入を受けて衰え、前770年に鎬京を捨てて洛邑に遷都した。これを東遷といい、これ以前を西周、以後を東周と呼ぶ。