中国周辺の情勢

匈奴

前4世紀頃、スキタイ青銅器文化を学んだ騎馬遊牧民族で強盛となった匈奴は、しばしば中国に侵入した。前3世紀末に冒頓単干が現れると、東西貿易路を独占し、大遊牧国家を建設した。しかし漢の武帝によって弱体化し、前1世紀に東西に分裂した。東匈奴は漢に服属し、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされた。東匈奴は1世紀に南北に分裂した。南匈奴後漢に服属し、北匈奴は西進してフン族となって、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたと言われている。
甘粛方面にいた月氏匈奴の圧迫を受けて天山方面に移動し、スキタイ系遊牧民サカ族を追ってイリ盆地を占領した。しかしこの地に鳥孫が進出したため、バクトリア地方に入って月氏となった。その後1世紀頃アム川南岸の大夏を服属させ、ギリシア文化を受容して繁栄した。クシャーナ朝もここから興った。

オアシス都市国家

パミール高原西側やタリム盆地周辺のオアシスには、前2世紀からアーリア人が定住して中継農業を行い、都市国家を築いて繁栄した。漢の武帝張騫を派遣したことで、西域の事情が中国に知られた。武帝衛青・霍去病匈奴討伐、李広利の大苑(フェルガナ)遠征などを行い、西域36国を服属させた。前60年には西域都護府をおいて西域経営に乗り出した。さらに後漢では班超の部下甘英は大秦国(ローマ?)に派遣された。こして東西文化の交流は発展し、中国の絹が珍重されたため絹の道(シルクロード命名リヒトフォーヘン)と呼ばれた。
南では前3世紀末に趙佗南越国を建設した。しかし後に漢と不和になり、前111年に征服され南海郡など9郡が置かれた。これによりしだいに南方海上の交通が開けだした。