北方民族の中国侵入

契丹の盛衰

モンゴル系の契丹は、9世紀中頃ウイグルの崩壊とともに唐文化の影響を受けて隆盛となった。唐の滅亡後、耶律阿保機を建国し、926年に渤海を滅ぼして東北地方頭部を勢力下とした。後晋の建国に際しては、武力援助を与えその代償として燕雲十六州の割譲を受けた。
宋と遼の国境付近では紛争が絶えなかった。1004年に宋と澶淵の盟を結び、多額の絹・銀を得ることを約し和睦した。その後は平和な状態が続いた。
大帝国となった遼は諸民族を統治するため、漢化政策をとらず二重統治体制をとった。遊牧民には部族制を存続させ、契丹慣習法で統治した。農耕民(漢人)には中国の州県制を採用し、中国の法をもって統治した。
12世紀になると財政難を起こし、契丹人と漢人の融和が行えずに契丹人が文弱になっていって国力は衰えた。このとき支配下女真族が興り、宋と同盟して南北から挟撃したため、1125年遼は滅亡した。
文化の面では中国文化の影響を受けて仏教が大いに普及した。また契丹文字を作って使用し、漢字に対抗した。
遼の滅亡直前、皇族の耶律大石中央アジアに逃れ、カラ=ハン朝の東国を滅ぼし、フスオルダを首都としてカラ=キタイ(西遼)を建国した。

西夏・金の盛衰

11世紀、チベット系タングート族の李元昊興慶府を都として西夏を建国した。中継貿易を主な財源とし、漢字に対抗して西夏文字を作った。宋にたびたび侵入したため、1044年慶暦の和約を結び、多額の歳幣を受け取った。
トゥングース系の女真族中国東北部で半猟半農の生活をしていた。やがて完顔部の族長完顔阿骨打が遼から独立し、1115年都を会寧としてを建国した。阿骨打は猛安・謀克と呼ばれる部族組織に基づき軍事社会を成立させた。1125年には遼を滅亡させ、さらに1127年には靖康の変で宋をいったん滅ぼした。12世紀中頃には南宋に臣礼をとらせて毎年多額の歳幣を受け取った。
金は遼にならって二重統治体制を行う一方、猛安・謀克という兵農一致の軍組織を維持して防衛に当たらせた。また女真文字を作成した。12世紀中頃に首都を燕京に移し、世宗のときに最盛期を迎えた。女真の支配階級は中国文化に心酔して文弱となったため、世宗は国粋政策を実施したが、女真人の漢化を防げなかった。また遼と同じく仏教が栄え、道教では儒・仏・道を調和した全真教重陽によって開かれた。
その後はモンゴルと南宋との紛争に軍事費を費やし、交鈔を乱発して経済を混乱させ、モンゴルに滅亡させられた。

宋の南渡

徽宗時代は平和な時代が続いたが、北部で金が勢力を増していた。宋はこの金と同盟して遼を攻めたが、この同盟の約束を守らなかったため、金は宋を攻撃した。首都開封は攻め落ち、徽宗・欽宗以下皇族などを捕虜として連れ去ったため、1127年いったん宋は滅亡した(靖康の変)。
同年高宗臨安で宋(南宋)を再建した。南宋では金と徹底抗争の主戦論と講和を結ぶ和平論とが対立したが、主戦論岳飛が敗れ、和平論の秦檜らが用いられた。そうして1142年に大散関で屈辱的な和議を結んだ。しかしその後も党派争いが続き、武力は不振だったため、1279年にモンゴルに滅ぼされた。