モンゴル民族の活動

モンゴル帝国の成立

モンゴル諸部は金の政策等によって団結できていなかったが、金の勢力衰退とテムジンの出現により統一が実現した。テムジンは1206年にモンゴル帝国を成立させ、チンギス=ハンと名乗った。かれは契丹人の耶律楚材を登用して国家体制を整備して広大なモンゴル帝国を形成した。まずは西夏を攻め、金の都中都を威圧した。また中央アジアを征服してトルコ系ナイマンホラズム王朝を滅ぼした。こうして東西貿易路を確保し、1227年に西夏を滅ぼした。この時代には隊商路の確保を主目的とする征服が進められた。
チンギス=ハンの死後、クリルタイによって即位したオゴタイ=ハンは、カラコルムに遷都し、1234年に金を滅ぼした。その後西方遠征に着手し、1236年にバトゥはロシアに入り、1241年にワールシュタットの戦いでドイツ諸侯連合軍を破った。一方西南アジアではフラグが1258年にアッバース朝を滅ぼした。こうしてモンゴル帝国はヨーロッパ・アジアにまたがる大帝国を建設した。

モンゴル帝国の分裂

チンギス=ハンは広大な征服地をジュチ・チャガタイ・オゴタイ・トゥルイの4子に分封した。オゴタイはモンゴリアにオゴタイ=ハン国を建て、チャガタイサマルカンドを都としてチャガタイ=ハン国を建てた。またジュチの子バトゥはカスピ海付近にサライを都としたキプチャク=ハン国を建て、トゥルイの子フラグはタブリーズを都としてイル=ハン国を建てた。この4つを4ハン国を呼ぶ。この分封は分裂を導いたが、フビライクリルタイを開いてハン位に就いたことにより、オゴタイの孫ハイドゥは反対派諸王とともにハイドゥの乱を起こした。こうして4ハン国の分裂は決定的となった。
4ハン国の推移については次の通りである。①オゴタイ=ハン国はハイドゥの乱によって衰え、1320年にチャガタイ=ハン国に併合された。②チャガタイ=ハン国アルマリクに都して東西トルキスタンを領した。イスラムし、ソグディアナを中心にイスラム文化を発展させた。しかし内紛によって弱体化し、1369年ティムールによって滅ぼされた。③キプチャク=ハン国は西シベリアから東ヨーロッパを領有して、ビザンツ帝国と通交して黒海貿易を独占した。しかし1480年モスクワ大公のイヴァン3世の独立によって、1502年に消滅した。ハンの分家(カザン・クリム・アストラハン)も、ロシアによって滅ぼされた。④イル=ハン国はイラン・イラクを領有し、インドとヨーロッパ間の交通貿易の幹線を支配した。ネストリウス派キリスト教を保護し、イラン=イスラム文化を復興させた。しかし14世紀末にティムールに攻められ、のちに消滅した。

元朝の成立

クリルタイによってハン位についてフビライ=ハンは1264年にカラコルムから大都に遷都し、1271年に国号をとして皇帝となった。1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。またその後もビルマやジャワにも遠征し、高麗から日本にも遠征を行った。
元は金にならって制度を整え、モンゴル人第一主義をとって中国を統治したが、モンゴル人は少なく、中国農耕社会に割り込むこともしなかった。モンゴル人・色目人漢人(金支配下だった漢人など)・南人南宋支配下だった漢人)の4つに分け、モンゴル人・色目人を支配層、漢人・南人を被支配層とした。また士大夫階級は冷遇され、儒者は最下位の身分である乞食より一つ上のランクというように蔑視された。
中央では中書省・御史台・枢密院を置いて三権分立の合議制を採用し、地方には中書省を置いて地方行政に当たらせた。行政の末端である実務分野は、やはり漢民族が占め、モンゴル人は結局侵入者でしかなく、中国社会は相変わらず佃戸制が中心であった。
元は漢文化を尊重しなかった。フビライモンゴル語を用い、ラマ僧パスパチベット文字系のパスパ文字を作らせた。こうして元は漢文化に同化したり心酔することがなかったが、そのために士大夫階級など漢民族の反感を買い、滅亡を早めることとなる。