明朝の興亡

明朝の成立

紅巾の乱で活躍した朱元璋は、1368年金陵を都として明朝を建て、元朝を北方に追い払った(北元)。漢民族の復興を目標として異民族打倒を呼びかけ、揚子江下流の穀倉地帯を手に入れて中国統一を成功させた。
一代の間は年号を変えない一世一元の制をしき、漢民族意識の高揚と伝統的中国文化の復興に努めた。諸制度の改革として、①自ら政務を統括し、六部を皇帝に直属させた。その後内閣大学士を六部の上に立たせ、軍事機関として五軍都督府、監察機関として都察院を置いた。②地方三権分立の制を定め、中央に直属させて皇帝の独裁下に置き、臨時の官として総督・巡撫を設置した。③軍人を軍戸、民間人を民戸として戸籍を区別した。④土地台帳である魚鱗図冊と、戸籍・租税の台帳である賦役黄冊を作った。⑤村落自治制度として里甲制をしき、里長や甲首に租税徴収権や徭役の割り当て、治安維持に責任を持たせた。⑥大明律大明令を制定し、⑦儒教主義に基づく六諭を作って民心を善導させた。
洪武帝朱元璋)の死後、建文帝が諸王の勢力を削ろうとしたため、北平の叔父燕王が反乱を起こした。この靖難の変によって永楽帝が帝位に就き、北京を都とした。また大運河の復旧・拡張を行い、南海遠征を実行した。宦官の鄭和はアフリカ東海岸にまで遠征し、明に朝貢するものが多くなり、貿易が発展した。さらに北元の子孫であるタタール(韃靼)を討ち、ついでオイラートを討ってモンゴル勢力を一掃した。

明朝の衰退

永楽帝を頂点とした明の国力は次第に衰退し始めた。宦官による政治の乱れに乗じて、北虜南倭と呼ばれるモンゴル族の侵入と倭寇の海賊行為により、国力はますます衰えた。
モンゴルのオイラートは次第に勢力を増し、族長のエセン=ハンが1449年に正統帝を捕虜とする土木の変を起こした。オイラートが内紛で衰えた後強盛となったタタール部のアルタン=ハンは毎年のように明に侵入して損害を与えた。日本で室町幕府が成立すると、倭寇の取り締まりが強化された。しかし統制がゆるみだして倭寇が活発になり、密貿易が頻発した。また中国人の流民も加わって福建・広東や内陸にまで手を広げた。この防衛により明は莫大な国費を要し、産業地帯である東南沿岸地域が荒廃して経済的な打撃を受けた。

国家再建の挫折

万暦帝の宰相となった張居正は、16世紀中頃から一条鞭法という新税法を普及させて税制を簡素化した。これは田地と人丁に対して課した税を銀納させたもので、清時代にはさらに簡素化されて地丁銀となった。これにより再び国力を回復させたが、張居正の死後はまた政治が混乱した。官僚と宦官は党派を作り、顧憲成東林派非東林派に分かれて政争を繰り返した。また秀吉の壬辰・丁酉の倭乱に救援をだしたことで、財政は窮乏し、之に乗じて女真族が後金を建てた。こうして明は重税を課すようになり、農民反乱が頻発した。1644年李自成の軍が北京を陥れ、崇禎帝は自殺し、明は滅亡した。明の遺臣は台湾に逃れ、鄭成功は台湾からオランダ人を追い出して、ここで満州人に抵抗した。