清朝の中国支配

清朝の成立

金朝を興した女真族は、その後も中国東北地方に残っていた。建州部のヌルハチは後金を建て、八旗軍を建設して、1619年サルホの戦いで明軍を破った。その子ホンタイジチャハル部を平定し、朝鮮も服属して国号をと改め、皇帝となった。1644年順治帝のころ山海関の守将呉三桂の求めに応じて、李自成を討ち、北京を首都とした。復明運動が起こったため、清朝遷海令をだして海上封鎖を行い、その活動を停止させた。康煕帝のときの1673年に呉三桂らの三藩の乱が起こったが、これを鎮圧し、台湾の鄭氏を倒して中国の領土とした。

清朝の対外発展

清朝康煕帝から雍正帝乾隆帝に至る3代は清朝の最盛期であり、領土は著しく拡大した。康煕帝のときは東トルキスタンジュンガルを討ち、チベットまで軍を進めて領土とした。雍正帝のときは青海を領土とし、乾隆帝のときは天山南路のウイグル人を討って新疆を完全に領土とした。こうして満州族・漢族・モンゴル族回族チベット族の5族の住地にわたり、周辺諸国はいずれも朝貢国になった。

清の中国支配

清は漢民族を支配するために、儒教的な王道政治を掲げる、通婚の禁制や辮髪の強制するといった懐柔策と威圧策を併用した。政治はほとんど明朝諸制度を引き継いだ。
①内閣大学士を置いて六部を統括させたが、雍正帝のときから軍機処を設け、軍機大臣が宰相となった。②科挙を盛んにし、満漢偶数官制を行った。しかし末端の事務は教養のない胥吏に任せていたので、多くの弊害が生じた。③雲南・広西省などや苗族などの居住地域では、族長を土司・土官に任命していたのを、中央から官僚を派遣して内地同様とする改土帰流を行った。④異民族は藩部として自治を許し、理藩院が統括した。⑤里甲制をしき、それとともに保甲制を設けて治安維持に当たらせた。⑥康煕帝は1711年以後増加した人口を盛世滋生人丁といって丁銀を免除した。雍正帝のときに地丁銀を成立させ、人頭税が消滅した。⑦軍制では満州八旗以外に、モンゴル八旗・漢人八旗が設けられ、さらに緑営という漢民族常備軍を地方に配属させた。
皇帝は進んで漢文化の理解に努め、学者や文化人を優遇した。その代わり文字の獄を起こすなど徹底的な思想統制を行った。またモンゴル族チベット族懐柔のためラマ教を保護した。
乾隆帝以後政治の綱紀は乱れ、漢民族懐柔策のため満州族に反感を抱かなくなったが、満州族漢文化に同化されて民族的自覚を失い、八旗兵は実戦で役立たなくたった。1796年に白蓮教徒の乱が起こったが、この乱の平定に役立ったのは漢民族が郷土で組織した郷勇であった。こうして漢民族は武力でも満州族に劣らないことを示し、政局においても漢民族が進出していった。また東南海上では艇盗と言われる海賊の反乱が相次ぎ、イギリスを初め西洋諸国の通商貿易による中国侵略が積極化した。