周辺諸国家の変遷

明朝に中国本土を追われた元は、北元タタール部)となってモンゴルを支配した。明の圧力が衰えると東モンゴルのタタール部と西モンゴルのオイラート部が抗争を続けた。15世紀の半ばにオイラートエセン=ハンに率いられて強盛となり、1449年正統帝をとらえる土木の変を起こした。その後はタタールが強盛となり、ダヤン=ハン内モンゴルを統一した。その孫アルタン=ハンはしきりに華北に侵入したが、西方に進出するため明と和議を結んだ。以後青海・チベットを従え、中央アジアにまで遠征した。その結果、チベットから黄帽派ラマ教がモンゴルに伝わり、モンゴルが平和的宗教的な民族に変わる契機となった。
清の康煕・乾隆時代の遠征によって、ジュンガルは滅ぼされ、天山南路のウイグル人を平定し、これらの地を藩部新疆として理藩院の直轄下においた。
チベットは14世紀末、ツォン=カパが現れてチベット仏教の改革を行い、黄帽派を興した。ツォン=カパの後継者がダライ=ラマとなって政教両権を握り、ラサを首都として支配した。ダライにつぐ権力者がパンテェン=ラマで、タシルンプ寺に住する。清はチベット・モンゴルを征服して藩部としたのち、ダライ=ラマなどを保護してモンゴル・チベット人を懐柔した。

李氏朝鮮の建国

14世紀末倭寇の激化によって、高麗は国防費を費やし財政が窮乏した。倭寇を討伐して功名を上げた李成桂親明反元を表明して、1392年に李氏朝鮮を建国した。都は開城から漢陽に移し、内政の改革に着手した。両班と呼ばれる文武の世襲官僚制を作り、朱子学を国教とするなど官僚的中央集権体制を建設した。銅活字が作られて印刷技術が進歩し、15世紀には訓民正音という音標文字が制定された。
両班は絶大な権力を持ち、やがて利害によって結ばれた党派が生まれた。彼らは私的な党争に熱中し、王位継承を巡る内紛などを起こした。16世紀には豊臣秀吉による壬辰・丁酉の倭乱が起こって荒廃し、清国の侵入を受けて1637年に服属国となった。

ヴェトナムの黎朝と西山朝

15世紀初め明の永楽帝は陳朝復興を名目に完全に征服した。黎利は独立運動をまとめて明を撃退し、1428年黎朝ハノイに建てて大越国と称した。明朝にならって官僚制を基盤とする王権の強化に努めたが、実権は鄭氏と阮氏の手に移った。鄭氏ハノイで黎朝の実力者となり、阮氏はユエに広南国を建てて、南北対立が始まった。
18世紀後半になると西山の阮氏が鄭・阮両氏を倒し、西山朝を建てた。清は遠征軍を撃退されて西山朝を承認したが、広南の阮氏一族阮福映ピニョーを通じて仏の援助を得、西山朝を滅ぼして1802年ユエを首都にヴェトナム(越南)を建てた。

シャム(タイ)とビルマミャンマー

南詔が滅んだ後シャム族の大理国が興り、北ビルマには11世紀にビルマ人のパガン朝が成立したが、いずれも元朝の征服で滅んだ。このとき南下したシャム族がカンボジアを破って1257年スコータイ朝を建てた。しかし14世紀半ばにアユタヤ朝がシャムを統一し、小乗仏教の国として栄えた。1767年ビルマ軍の侵入で滅びたが、このとき華僑の血統であるピヤ=タクシンビルマ軍を撃退して王位につき、トンブリを建国した。彼が人望を失うとピヤ=チャクリラーマバンコク朝(チャクリ朝)を開き、ラーマ1世となった。
パガン朝滅亡後、16世紀半ばトゥングー朝ビルマを統一した。ペグーに都を置き、小乗仏教として栄えた。滅亡後はアラウンパヤー朝が興って統一した。これは東西に領土を拡大し、一時はアユタヤも支配下に置いたが、1790年以来清の属国となった。

東南アジア諸島

ジャワ島では13世紀にシンガサリ朝が栄えていたが元朝の遠征を受けた。このころヒンドゥー教マジャパヒト王国が拡大し、14世紀にはマライ半島などを支配して栄えた。14世紀末にイスラム教が広まり、マラッカ王国の侵略を受けて衰退した。マジャパヒト王国が滅んだ16世紀頃には東南アジアの諸島はイスラム化され、各地にイスラム王国が出現した。