イスラム帝国の発展

正統カリフ時代

ムハンマドの死後、アブー=バクルがカリフ(後継者)となり、政教両権を握った。以後アリーまでの30年を正統カリフ時代と呼ぶ。アブー=バクルのあと、2代オマル、3代オスマーンの時代に、イスラム教団は領土を拡大した。オマルの時代の642年にはササン朝ペルシアをニハーヴァントの戦いで撃破した。この広大な大国家をヨーロッパ人はサラセン帝国と呼び、中国では大食と呼んだ。
イスラム帝国は異教徒の被征服民に対してイスラム教を強制せず、人頭税ジズヤ)・地租(ハラージュ)を課して生命・財産を保証したため、改宗者は増加した。あくまで改宗しない異教徒たちは東方に逃れ、唐代の中国に祅教ゾロアスター教)・景教ネストリウス派)・マニ教などが伝わった。
ムハンマドの死後、イスラム教は分裂した。一つは「党派」の意味を持つシーア派である。シーア派アリーのみをムハンマドの後継者と主張する少数派である。もう一つは「慣行」の意味を持つスンナ派である。スンナ派4人の正統カリフを認めている多数派で、ウマイヤ朝スンナ派を奉じていた。

ウマイヤ朝

第4代カリフのアリーが暗殺されたあと、ウマイヤ家のムアーウィヤがカリフとなり、都をクーファからダマスクスに移してウマイヤ朝を開いた。またカリフの地位は世襲となった。ウマイヤ朝は領土を拡大させ、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでヨーロッパに敗れたが、イベリア半島にまで進出して地中海を支配した。領土の拡大が農耕地帯に広がったため、ムスリムの定住・土地私有が始まって貴族層が形成された。
拡大し続けるウマイヤ朝カリフは次第に専制的になり、アラビア人第一主義を取ったため内乱が起こった。こうして750年アッバース朝が興って滅亡した。

イスラム帝国の分裂

反ウマイヤ勢力はシーア派の勢力を利用して、アブル=アッバースを擁してウマイヤ朝を倒し、バクダードを都とするアッバース朝を開いた。アッバース朝専制国家の体制を整え、751年にはタラス河畔の戦いで唐勢力を倒し東西貿易の覇権を握った。また農業生産力を高めるために多くの運河を掘削した。第5代ハールーン=アッラシードのときに最盛期を迎え、首都バクダードは世界的な国際都市として繁栄した。
一方ウマイヤ朝の一族アブドゥ=ラッフマーン1世はスペインに逃れ、コルドバを都とする後ウマイヤ朝を開き、カリフを称した。そのためアッバース朝後ウマイヤ朝との二人のカリフに分裂した。後ウマイヤ朝では第8代アブドゥ=ラッフマーン3世のときに最盛期を迎え、ファーティマ朝と争って領土を広げ、地中海貿易を掌握した。