アラビア人衰退後の形勢
エジプト諸王朝とグラナダ王国
アッバース朝の衰えに対し、10世紀のエジプトにファーティマ朝がでた。シーア派を奉じ、カイロを建設して首都とし、自らカリフを称した。地中海・北アフリカ貿易を独占し、最盛期を迎えた。しかし1169年サラディンがファーティマ朝を倒して、アイユーブ朝を建て、十字軍も撃退した。アイユーブ朝も1250年に女王シャジャル=アッドゥルのマムルーク朝に滅ぼされた。しかしマムルーク朝も1517年オスマン帝国に滅ぼされた。
後ウマイヤ朝は北アフリカとスペイン全土を支配したが、やがてキリスト教とイスラム教の紛争、ベルベル人傭兵の横暴などのため、1031年に滅亡した。その一族が建てたグラナダ王国はアルハンブラ宮殿などを残したが、スペインの国土回復運動(レコンキスタ)によって滅亡した。
イラン人勢力とトルコ人勢力
アッバース朝治下で地方の軍事・政治実権を持っていたアミール(総督)やトルコ族などの親衛隊(マムルーク)は、次第に自立的傾向を強めていった。こうした中各地にイラン系・トルコ系の諸王朝が自立して、スルタン(世俗的統治権を握った君主)を称し、アッバース朝カリフは宗教上の権威を持つのみとなった。
イラン系の王朝には、中央アジアのソグディアナを中心とするサーマーン朝(874〜999)と、バクダードを占領したブワイフ朝(932〜1055)があった。サーマーン朝はスンナ派を奉じ、首都ボハラは商況業が栄えた。
トルコ系王朝としては、アルプテギンの時にサーマーン朝から自立したガズナ朝がある。ガズナ朝はたびたびインドに侵入し、マフムードの治世には繰り返し侵入して、インドのイスラム化を進めた。また東トルキスタンのカラ=ハン朝は、サーマーン朝を倒して中央アジアのイスラム化を実現した。