オスマン帝国の興亡

オスマン帝国の興起

13世紀末族長オスマン=ベイが、セルジューク朝の衰退に乗じてオスマン帝国を建国した。ビザンツ帝国領に侵入しながら、ビザンツの制度や技術を取り入れて国家体制を整備し、イェニチェリというキリスト教徒の子弟を強制的に徴集してイスラム化した親衛隊を組織して発展の基礎を作った。
ムラト1世は1361年にハンガリーなどを破ってアドリアノープルを占領し、首都とした。さらに1389年にはコゾヴォの戦いセルビアを破り、バルカン領有の基礎を築いた。バヤジット1世ハンガリージギスムント率いるキリスト教軍を1396年ニコポリスの戦いで撃破した。しかし1402年にアンゴラの戦いでティムールの捕虜になり、オスマン帝国は一時中絶した。

オスマン帝国の再興

オスマン帝国はその後領土回復に努め、1453年メフメト2世のときにコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。コンスタンティノープルイスタンブルと改名されて、オスマン帝国の首都となった。セリム1世はさらに領土を拡大させた。スンナ派を信仰していた彼は、シーア派サファーヴィー朝(都タブリーズ)を滅ぼし、エジプトのマムルーク朝も滅ぼした。セリム1世は名目となっていたアッバース朝カリフであるムタワッキル3世からカリフの称号を受け継ぎ、スルタン(帝国の主権者)とカリフ(イスラム世界の教主)の両方を兼ねるスルタン=カリフ制が成立した。(カリフを公然と称したのは19世紀のアブデュル=ハミト2世のとき。権力低下への対策として行われた)
次のレイマン1世のときにオスマン帝国は最盛期を迎え、1529年にはオーストリアのウィーンを包囲した。またドイツ皇帝カール5世を圧迫するため、フランスのフランソワ1世と同盟を結び、仏商人に自国領内で通商の自由を認めるカピチュレーションを与えた。また1538年にはプレヴェザの海戦ヴェネツィアカトリック連合艦隊を破り、地中海の海上権を握った。こうして陸海の東西交通の要路を押さえて、中継貿易の利益を独占した。