ティムール帝国とサファーヴィー朝

ティムール帝国の盛衰

14世紀西チャガタイ=ハン国の衰退に乗じて独立したティムールは、サマルカンドを都としてイスラム教を基礎とするモンゴル帝国の再建をめざした。1402年アンカラの戦いオスマン帝国バヤジット1世を捕虜にし、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築いた。明朝討伐を企てサマルカンドを出発したが、1405年病気のため死んだ。
一時的な内紛のあと即位した子のシャー=ルフと孫のウルグ=ベクの時代に文化の最盛期を迎えた。東西貿易が盛んになって国力が豊かにしたが、ウズベク族の侵入によって帝国は衰え、1500年崩壊した。

サファーヴィー朝の興隆

1502年にイスマイール1世サファーヴィー朝を建国した。イラン全土を統一し、シーア派イスラム教を国教としてイラン人の団結を強化した。そのためスンナ派オスマン帝国と激しく対立し、タブリーズを奪われるなど守勢が続いた。
アッバース1世のときに攻勢に転じ、多くの失地を回復して最盛期を迎えた。都をイスファハーンに移し、ここを中心にイラン=イスラム文化が栄え、「イスファハーンは世界の半分」と言われるほどになった。またオスマン帝国を牽制するため、ヨーロッパにも使節を送った。しかしアッバース1世の死後アフガン人の侵入等で急速に衰え、1736年に滅亡した。
イランはオスマン帝国とロシアの侵入で混乱に陥った。ナーディル=シャーが国内を統一して1736年アフシャール朝を建てたが、死後分裂した。また南部イランからカリーム=ハンが出て1750年ザンド朝を建てるも、アーガー=ムハンマドに滅ぼされてカジャール朝が成立した。しかしカジャール朝はヨーロッパ列強とロシアの間で苦しむことになる。

イラン=イスラム文化

ティムールを初めシャー=ルフやウルグ=ベクなどの歴代皇帝が文化を保護したため、イラン=イスラム文化は栄えた。サマルカンドには各地から技術者が集められて陶器・刺繍などの工芸品が栄えた。また建築(ティムール廟のグール=イ=ミール廟など)と細密画(ミニアチュール)が発達し、イスラム世界に影響を与えた。