ムガル帝国の繁栄と衰退

アウラングゼーブ帝

アクバルの孫シャー=ジャハンと、その子アウラングゼーブの2代はムガル帝国の最盛期だった。シャー=ジャハンは都をアグラからデリーに移した。中央集権制も確立し、手工業も発達してインド史上で最も安定した統一国家となった。
しかしアウラングゼーブ帝の時期は繁栄の頂点から衰退に向かう過渡期だった。彼は熱心なスンナ派イスラム教徒で、国内の徹底的なイスラム化を理想としてジズヤ(人頭税を復活して、非イスラム教徒を弾圧した。こうしてアクバル帝以来の宗教・民族宥和政策は破壊され、各地に反乱が起こったラージプート族は長期にわたって反乱を繰り返し、ヒンドゥー教徒マラータ族マラータ王国を作り、その後団結してマラータ同盟を作って反抗した。
アウラングゼーブ帝の死後は有力な王が出ず、地方各地に藩王国が独立するなどして、18世紀前半にはムガル皇帝はデリー周辺にしか勢力を持たなくなった。1739年にはイランのアフシャール朝ナーディル=シャーが侵入しデリーを破壊した。こうしてムガル帝国は衰え、代わってマラータ同盟デカン高原を中心に勢力を広げた。しかし1761年にアフガニスタンに敗れて衰退していった。パンジャブー地方ではシク教創始者ナーナク)が勢力を拡大した。こういった分裂状態はヨーロッパの侵略を安易にしていった。
18世紀初めのアフガニスタンは、西がイランのサファーヴィー朝、東がムガル帝国支配下にあった。サファーヴィー朝滅亡後にでたナーディル=シャーアフシャール朝を建国した。その死後1747年にアフマド=シャーアフガニスタンを建国したとされる。インド支配者イギリスと対立し、3度のイギリス=アフガニスタン戦争を行い、独立国となった。

インド=イスラム文化

イスラム教徒のインド侵入によって、インド文化とイラン文化を貴重としてイスラム文化とが結合し、インド=イスラム文化が形成された。絵画では細密画(ミニアチュール)が流行し、中国・イラン式にヒンドゥー様式を加味したムガル画と、イスラムヒンドゥー様式であるラージプート絵画が生まれた。建築ではシャー=ジャハンが皇妃ムムターズ=マハルのために建てたタージ=マハル廟が有名である。