ローマ=カトリック教会の成立

ローマ教会の成立

カトリック教会には五本山と呼ばれるアレクサンドリアイェルサレム・アンティオキア・コンスタンティノープル・ローマがある。7世紀になると、前三者イスラム圏に吸収され、コンスタンティノープルビザンツ皇帝の統制に服した。ローマ教会はグレゴリウス1世の頃から自立を目指し、教皇(papa)と呼ばれるようになった。ペテロの創建になったという伝承と、古代ローマの首都であったという事情がローマ司教を権威付けた。

カトリック宣教

レオ1世はローマを異民族から守り、その後フランク族カトリックキリスト教を受け入れ、ゲルマン諸族のカトリック化を目指した。宣教活動は修道士たちによって行われた。

修道院とその改革運動

隠者の禁欲的集団生活形態が伝わって、修道院運動が根付いた。529年ローマ南方のモンテ=カシノ修道院を開いたベネディクトゥスは、「祈り、働け」の会則を定めた。布教だけでなく、開墾事業や古典の筆写などの活動もして、修道院は社会教化の中心・古典文化の保管所となった。
修道院も領地の寄進をうけ、教会と同様に世俗的権力としての性格を強めていき、9・10世紀には修道海も組織の崩壊・堕落が進んでいった。こうした中で修道院改革運動が始まり、10世紀初頭に成立したクリュニー修道院や、11世紀のシトー修道会ベルナルドゥス創始)が作られ、ベネディクトゥス戒律の遵守をうたった。さらに13世紀には生活の基礎を托鉢行為に求めた托鉢修道会が生まれた。イタリアのフランチェスコ修道会やフランスのドミニクス修道会である。

東西教会の分裂

ビザンツ皇帝はローマ皇帝を継承する存在であったから、ローマ教会に対して命令権を持つと考えていた。しかしローマ教会は自立の方向を模索していた。
マリアやキリストなどの画像や彫像を崇拝する慣行は東西に根付いていたが、726年ビザンツ皇帝レオ3世聖像禁止令を出してその遵守を要求した。ローマはこれを拒否し、フランク王権に接近していった。聖像禁止令自体は撤回されたが、1054年ローマ教皇レオ9世コンスタンティノープル総主教が互いに破門しあって、東西両教会は分裂した。