キリスト教の公会議

たくさんでてきて混乱してしまいそう。一応重要そうなやつを一個一個軽くまとめて書いてみます。

325年ニケーアの公会議

一発目。開いたのはコンスタンティヌス。313年のミラノ勅令キリスト教を公認してます。衰退しつつあったローマ帝国の再統一の基盤としてキリスト教を利用し、教義の統一を図りました。この会議でエス聖霊の分離を主張するアリウス派が異端となり、三位一体説を唱えるアタナシウス派が正統となりました。アリウス派はこの後ゲルマン諸族に広まっていきます。

431年エフェッソスの公会議

これも教義統一の会議。キリストの神性と人性の分離を主張したネストリウス派が異端とされ、アタナシウス派が正統となります。ネストリウス派はこの後東方に伝わり、中国で景教と呼ばれます。

451年カルケドンの公会議

これも教義に関する会議。キリストの神性のみを主張する単性論が異端となります。ちなみに単性派の教会としてはエジプトのコプト教会やシリア教会があります。

1095年クレルモンの公会議

飛びます。教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱した会議です。厳密にいうと、会議が終わった後に言ったみたい。これは当時セルジューク=トルコがイェルサレムを支配していて、どんどん拡大していました。ビザンツ皇帝アレクシオス1世アナトリアまで侵入してきたため、ローマ教皇に支援を求めたのです。口実として聖地奪還が掲げられました。当時はサンチャゴ=デ=コンポステラなどにも巡礼者が多数行っているように、巡礼熱が高揚しておりまして。丁度良かったわけですな。んで無事奪還して、イェルサレム王国を建てました。十字軍はだいたい八回くらい行っています。三回のときサラディンが出てきて、四回はインノケンティウス3世が提唱し、ヴェネツィア商人の意向でコンスタンティノープルを攻略しちゃいます。んでラテン帝国を建て、ビザンツ皇帝はニケーアに亡命します。この辺から宗教的意義がなくなっていきます。仏王ルイ9世が6・7回行き、失敗。この人はルブルックモンゴル帝国に派遣してます。んで1291年拠点のアッコンが陥落して十字軍は終了と。これによって教皇の権威が落ちて諸侯が没落し、王権が伸張することになります。さらに東方貿易が活発になって、北イタリア諸都市が繁栄しました。

1414年コンスタンツの公会議

神聖ローマ皇帝ジギスムントが提唱して開催されました。これは教会大分裂(シスマ)を解決した会議です。シスマは教皇のバビロン捕囚と呼ばれたアヴィニョン教皇庁から起こります。アヴィニョン教皇庁からローマに教皇が移ったところ、アヴィニョンで仏王がまた教皇を立てちゃいました。これで分裂が始まり、その後一回二人とも廃位にして新しく教皇を立てるって話になったんですが、みんな無視したため、三人も教皇が生まれちゃいます。これを解決したんですな。結局三人とも廃位して、マルティヌス5世教皇となります。このとき教皇すらも公会議の決定に従わなければならないとする公会議主義の最盛期でした。教皇が安定しだすと、元の木阿弥となってしまいます。
あとベーメンフスと英のウィクリフの説を異端とし、フスを火刑にしました。

1545年トリエントの公会議

かなり長くなった。これは宗教改革に対するカトリック側の反宗教改革運動です。カール5世の申し出を受けてパウルス3世が開催しました。プロテスタント側にも出席を求めたが、まあ結局こずじまい。これにより、教皇の至上権とカトリック教義の再確認とプロテスタントの主張を排斥し、カトリックの刷新を図りました。また禁書目録を定め、宗教裁判所を設けるなど異端取り締まりを強化しました。ちなみに反宗教改革の急先鋒はイグナティウス=ロヨラが創設したイエズス会です。フランシスコ=ザビエルもここに所属していました。イエズス会は厳格な軍隊的規律を基に活動し、特に海外伝道に大きな役割を果たしました。