教皇権の推移

ローマ教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭という階層秩序を完成させたローマ教会は、世俗においては領主として権力を握った。こうした世俗化に対し、クリュニー修道院は改革運動を展開し、11世紀になるとクリュニー修道院出身の教皇が改革運動を推進させた。
クリュニー修道院出身のグレゴリウス7世は教会の自立を目指し、ハインリヒ4世との間に聖職叙任権闘争を展開した。教皇ハインリヒ4世を破門したため、1077年皇帝は教皇に謝罪した(カノッサの屈辱)。皇帝はその後勢力を立て直し、グレゴリウス7世を追いつめたが、1122年ハインリヒ5世カリクトゥス2世ヴォルムスの協約を結び、教皇は叙任権を、皇帝は司教領の授封権を持つ形で和解した。こうして教皇は世俗権力から自立し優位を確保していった。
13世紀のインノケンティウス3世のときに、教皇権は絶頂に達した。彼は仏王フィリップ2世や英王ジョンを破門するなど、世俗権力に干渉した。また第4回十字軍を提唱し、フィリップ2世に対しては異端のアルビジョワ派討伐を指令してアルビジョワ十字軍を行わせた。さらにドミニコ修道会、フランチェスコ修道会を認可し、異端狩りの先兵の役割を行わせた。