ビザンツ帝国

ビザンツ帝国はローマの後継者を自負し、ユスティニアヌス帝の代に、帝国の復興を目指した。6世紀前半にササン朝ホスロー1世と和を結び、名将ベリサリオスを用いてヴァンダル王国東ゴート王国を滅ぼし、西ゴート王国からイベリア半島を奪って、地中海を制覇した。またローマ法大全トリボリアヌスに編纂させ、聖ソフィア聖堂を建てた。また中国から蚕卵を得て絹織物業を興した。
ユスティニアヌス帝の死後、北イタリアがロンバルド族に奪われるなど帝国は縮小し始めた。ラクレイオス1世は、こうした異民族の侵入に対処するため軍管区制(テマ制)を行い、さらに屯田兵制と組み合わせた。しかし7世紀末には領土が小アジアとバルカンの一角のみにまで縮小した。
キリスト教については、726年レオン3世聖像禁止令をきっかけにローマ教会と対立し、1054年には正式に東西教会が分離し、ギリシア正教会として独自に神学を持つようになった。
9世紀後半からのマケドニア朝では帝国は国力を回復した。11世紀初めにはバシレイオス2世宿敵ブルガリアを破り、「ブルガリア人殺し」の異名を持った。

ビザンツ文化

ギリシア語を公用語とし、ギリシア古典研究が復興してギリシア化が進行したコンスタンティノープル聖=ソフィア聖堂ラヴェンナ聖=ヴィターレ聖堂は、円蓋とモザイク壁画をもつビザンツ建築の代表である。また聖画(イコン)が信仰の対象となっていった。
コンスタンティノープルなどの都市では貨幣経済が発達し、ノミスマ(ビザンツ金貨)が標準通貨となった。

帝国の衰退

11世紀後半には大土地所有者が台頭し、アレクシオス1世軍事奉仕の代わりに国有地の管理をまかせるプロノイア制をしいたため、社会の封建化が進行した。1071年にはマンジケントの戦いセルジューク朝アルブ=アルスラーンに敗れて小アジアを占領され、13世紀には十字軍にラテン帝国を建てられ、亡命政府ニケーア帝国を作るなど衰退が進んだ。こうして1453年にオスマン帝国メフメト2世により滅亡させられた。
ビザンツ帝国が1000年もの長い間存続したことは、大きな意味を持った。①ローマ帝国の制度と文明を継承し、②アジア諸民族の西進を阻む防波堤となった。また③古典古代の学芸の保存につとめ、西ヨーロッパに伝え、④ギリシア正教会が、バルカン諸民族の民族的自立の精神的な支えとなり、ビザンツ的ローマがロシアに継承されていった。