過去の日記4

また昔の日記。

どのくらい久しぶりに書くだろう。今までのは全てちゃんと落ちがついていたが、これはどうなるかわからん。
ユーゴスラビア出身、日本を愛し、名古屋グランパスエイトを愛したドラガン・ストイコビッチというサッカー選手がいる。彼の相性は「ピクシー(妖精)」と呼ばれた。サッカーにも他のスポーツと同様様々な呼び名がある。その中でも長い間語り継がれていく呼び名が「ファンタジスタ」である。極少数の人にしか与えられないその名は、今までペレやジーコ、クライフ、ベッケンバウアーマラドーナを筆頭に、現代だとバッジョジダンがその名を連ねる。中田英寿は感心するほどのプレーヤーだが、そこに名を連ねることはまずない。彼らに共通することはピッチ場にアートを描くと言われるほど、美しいプレーをする。そこに名を連ねているのが、ストイコビッチである。
彼のキックは「ピクシーアート」と呼ばれるほどの放物線を描き、フィールドを彩る。「アート」、それは本来スポーツの分野では使われることのない言葉であった。「芸術」と日本語に訳される「アート」は、人に感動を与えるという。芸術とは「空間を作り出すこと」だと考えている。それは音楽であったり、映画であったり、本であったり、形は様々だが、そこに独特の空間を作り出す。その空間を五感で感じ、人は感動するのだろう。
アイドルを体系化したと言われる松田聖子でさえも、芸術を生み出すことはできなかった。最近のミュージックシーンを見ていると、独特の空間を作り出せない「アーティスト」と言われる人が多すぎる。なんの感動もない、あるのはかっこよさであったりかわいさであったりするだけである。
メディアが大きな文化を創り出している現在においても、「笑い」を芸術と認める人は少ない。やすきよの漫才、さんまのしゃべり、どれをとっても独特の空間を作り出している。ソムリエは楽しい食事を作り出す「アーティスト」である。同じ「笑い」なのに、どうしてここまで芸人はバカにされるのか。それは見ている側が「笑わせられている」と感じず、「笑っている」だけと感じているからであろう。見ている側が勘違いするほどみごとな「空間」を作り出しているのに。