100分de名著『旧約聖書』

『旧約聖書』 2014年5月 (100分 de 名著)

『旧約聖書』 2014年5月 (100分 de 名著)

 『旧約聖書』を「古代ユダヤ民族についての文書を集めた小さな図書館」と呼んだ著者は、どのような見方をしているのか。非常に興味深く、おもしろい内容でした。
 まず、ユダヤ教を『本格的な一神教』とし、『普通の一神教』とは違うとしている。これはどういうことか。『普通の一神教』は「神を選んでいる」が、『本格的な一神教』は「他の神を選べない」。そしたら、なぜ「ユダヤ教は神を選べなかった」のか、これがユダヤ教ユダヤ教たるゆえんである。
 きっかけは「出エジプト」である。「出エジプト」は当時よくあったと考えられる奴隷の集団脱走事件だった。しかし脱走奴隷=無法者なので排他的になり、民族起源神話が作られた。その後ヘブライ王国は南北に分裂し、北は顕著に多神教的になっていく。この頃は、まだ「神を選べた」《もしバアル(が神)ならば、彼に従え》。そのうち北王国が滅亡する。ここでユダヤ人は2つに分かれた。ヤーヴェ(ユダヤ教の神)を見捨てる者と、それでも信仰するもの。前者はユダヤ人ではなくなった。すると矛盾が生じる。「ヤーヴェは自分たちの神である」はずなのに、「ヤーヴェは北王国を滅ぼしたのだから頼りにならない神だ」と。これではどうしようもない。なので、神学的思考の転回が生じる。「神がダメ」なのではなく、「民がダメ」だと(=これってまさに認知的不協和)。この「民がダメ」が「罪」ということ。
 伊集院さんがテレビでも言っていたが、これは無敵である。何が起こっても民に「罪」があるわけだから。こうして「罪」を背負った民はヤーヴェを信仰し、「罪」があるため他の神を選べない、『本格的な一神教』が成立した。
 これをさらに深める。問題点が2つ。1つ目は「神の沈黙」(神が救ってくれない)理由は「罪」のせいなのかわからない点、2つ目は「神が民と契約を結ぶことがありえるか」という点。1つ目には、「人間が神を操ることができる」という態度が隠れている(「罪」があるから、「神の沈黙」があるという論理)。二つ目には、神が「契約」に縛られたら「契約」が神になってしまう、という点。
 ここはすごい。考えたこともなかった。よく西欧とアジアの違いで、「契約」を使うことがあるけど、こんな論理が隠れているなんて。けど、『本格的な一神教』ってつらすぎる…。と思っていたら、
《あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく、あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望み、あなたの土地は夫を得るからである。 若者がおとめをめとるように、あなたを再建する方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとする》
 救いはあった!!!けど、状況は改善しない。ずっと希望のまま。「ヨブ記」や「ヨナ書」など、主張が異なるものも収められている。まさに「図書館」という感じです。そして「黙示思想」。悪の状態にあるこの世を滅ぼし、神が新たな世界をつくる。一部のものたちへの「救い」は、「終末」のときに起こる。だから「終末」が早く実現することを待ち望む。それは一体いつなのか…
《今の状況は、今の者たちに属する。未来の状況は、未来の者たちに属する》
《そこで私は答えて言った。「それはあとどれくらいで、いつのことなのですか。なぜ私達の年は、つまらない、不幸せなものなのですか」。彼は私に答えて言った。「至高者より急いではいけない」》
 神は「沈黙」しているが、いつか一方的に動く。だから「人が何をしても救われない」。
 なんというドMさ。しかしそこにこそ、信仰がある。

 古代史をどう教えるか、というのが未だ組み立てられず、そこに一貫性を築けていない。けどこれを読んで、少なくともヘブライ人たちの歴史は、旧約聖書ユダヤ教)と共に教えるべきだなと思った。教科書のようにバラバラにではなく。旧約聖書ユダヤ人の歴史なのだから、分ける必要はない。むしろ、ユダヤ教の成り立ちを学ぶために、ヘブライ人の歴史があると思ったほうがいいと感じた、