ギリシア史の展開(ペルシア戦争、ギリシアの衰退)

ペルシア戦争

ギリシアの東方で大帝国を築いていたアケメネス朝ペルシアは、小アジアギリシア諸都市を征服していた。それに対し、ミレトスなどのイオニアの諸都市が反乱を起こしたが、鎮圧された。アテネはこの反乱を援助していたため、ペルシアの大王ダレイオス1世はギリシア本土に侵入した。
前490年のマラトンの戦いでは、ミルティアデス率いるアテネ軍が勇敢に戦い、これを撃退した。前480年クセルクセス王が侵入。レオニダス率いるスパルタ軍はテルモピレーの戦いで玉砕し、ペルシア軍はアテネに侵入した。しかしアテネ将軍テミストクレスサラミスの海戦でペルシア軍を破り、プラタイアの戦いでも敗れてペルシア軍は敗北した。前449年にカリアスの和約で正式にペルシア戦争終結した。
東方専制政治 VS ギリシア民主制の抗争であったペルシア戦争に勝ったギリシア諸都市は黄金時代を迎える。アテネは最大の功績を果たし、対ペルシア同盟のデロス同盟の盟主となった。ペルシアとの和約が結ばれると、デロス同盟で集めた資金はアテネ内部に流用されるようになった。またペルシア戦争で活躍した重装歩兵や、三段櫂船のこぎ手として活躍した無産市民の発言権が増大した。ペリクレスはこういった背景の下、ほとんどすべての官職を市民に開放し、民主化を徹底させた。

ギリシアの衰退

デロス同盟の強化はスパルタを中心とするペロポネソス同盟の結束を強める結果となった。アテネと対立していたコリントは、スパルタに働きかけてペロポネソス戦争を開戦させた。海軍中心のアテネと陸軍中心のスパルタの戦争は長期間にわたった。アテネではペストが流行し、ペリクレスと人口の3分の1を失い、煽動政治家(デマゴーコス)の出現で衆愚政治となってしまった。前421年のニキアスの和約で一時中断したが、結局再開されアテネは降伏した。
ペロポネソス戦争ギリシア全般で行われたため、農地は荒廃して中小農民が没落していった。民主制が復活したアテネはコリントと結んでコリント戦争を起こしたが、スパルタはペルシアと同盟をしてアテネを圧倒し、外国勢力を介入させてアンタルキダスの和約を結んだ。次に覇権を握ったのはテーベであった。エパメノンダスの活躍により、前371年スパルタをレウクトラの戦いで破ったが、すぐに衰退してしまった。
このように覇権を争う戦争が続いたため、農地は荒廃して農民は没落し、傭兵になるものが増大した。また貨幣経済の発達・土地集中によって貧富の差が拡大し、市民意識の低下による衆愚政治が行われるようになった。結局前338年には北方マケドニアのフィリッポス2世にカイロネイアの戦いで降伏することになった。