ヘレニズム時代

ヘレネスギリシア人)に由来する言葉。ドイツの歴史家ドロイゼン命名した。

マケドニア

ギリシアのポリスの衰退期に北方で原始的な王政の段階にとどまっていたマケドニア。王権はあまり強大でなかった。前359年に即位したフィリッポス2世は、王権を強化して中央集権化を図り、強力な軍隊を築き上げた。それに対してギリシアではマケドニア派(ソクラテス)とペルシア派(デモステネス)に分かれていたが、最終的にはデモステネスの意見が通り、前338年にカイロネイアの戦いを起こしたが完敗した。フィリッポス2世はギリシアヘラス同盟を作り、自ら指導者となってギリシアを支配した。

アレクサンドロス大王

フィリッポスの子アレクサンドロス大王はペルシア遠征を行った。前333年イッソスの戦い、前331年アルベラ(ガウガメラ)の戦いでペルシアを滅ぼし、さらに東方のバクトリアまで進出した。少年時代にアリストテレスを家庭教師にしていたこともあってか、彼は東西文化の融合を図った。①ペルシア人にもギリシア人と同等の地位を与え、②マケドニア人とペルシア人集団結婚を行い、③各地にアレクサンドリアを建設して、④ギリシア語を共通語(コイネ)として通用するようにし、⑤東洋風の専制君主として支配を行った。しかしアレクサンドロス大王は急死ししたため、帝国は分裂した。

ヘレニズム諸王国

大王の死後、後継者(ディアドコイ)によって分裂した。アンティノゴス朝マケドニアは、王が神的崇拝を受けるということはなく、兵士全体で構成する集会が主体的な役割を果たした。前146年にローマの属州となった。
セレウコス朝シリアアンティオキアを首都として、東方専制君主的に王は神として崇拝を受けて支配を行った。この王国はギリシア風都市を建設したことで、ギリシア文化の東方流入基地となった。周辺では各国が独立し、アッタロス朝(首都ベルガモ)やギリシアバクトリアイラン系パルティアが成立した。こうして弱体化したセレウコス朝は前64年ローマのポンペイウスに併合された。
プトレマイオス朝エジプトアレクサンドリアを首都として、王が神として君臨するエジプト古来の統治を行った。前30年にクレオパトラの自殺によって滅びた。
ギリシアではポリス社会の後進地域でアカイア同盟アイトリア同盟が作られ、結束してマケドニアやローマに抵抗したが、結局ローマの属州となった。

アレクサンドロス大王のペルシア遠征によって、ギリシア文化が東方に流入し、ヘレニズム文化という新しい文化が形成された。古典的ギリシアに比べて諸国間の交流が盛んになり、個人意識が強まり、神々への素朴な信仰が失われた。