ローマ

初期イタリア

ティベル川流域に発生した都市国家ローマ。平野や良港が少なかったため、オリーブやブドウの果樹、穀物や牧畜を行って生活した。前900年頃、小アジア方面からエトルリア人が移住した。ローマを作ったラテン人もエトルリア人支配下にあり、政治的・文化的に多大な影響を受けている。

共和制ローマ

伝説によれば、ローマは前753年ロムルスが建設したラテン人都市国家であり、王政を行っていた。その後共和制が行われ、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)と奴隷で構成された社会だった。大土地所有者である貴族だけが完全な市民だったので、実質は貴族制であった。
政治機構は元老院と役人と民会によって構成されおり、元老院が最高決議機関であった。官職は二人のコンスルが政治や軍事を統治し、非常事態にはディクタトルを一人選び、全権を委ねた。民会はクリア会兵員会(ケントゥリア会)、平民会があったが、権限は弱かった。
貴族と平民は早くからら対立し、平民の身分闘争が始まった。その理由は、①本来国有地であるはずの征服地を貴族が占有している ②商工業の発達により貴族に比肩する経済力を持つ者が現れた ③平民主体の重装歩兵が戦場で重要な地位を占めた ことによる。前494年平民は聖山事件を起こし、平民の権利を守る護民官を設置させた。前451年には十二表法を制定し、貴族の法の乱用を制限した。前367年にはリキニウス=セクスティウス法コンスルの1名を平民から選出することを決め、前287年のホルテンシウス法では、平民会の決議が国法と認められるようになった。このように平民による身分闘争が進んだが、元老院は未だ大きな権威を持ち、市民権所有者が各地に分散したことによって民会が機能しなくなりアテネのような民主制は成立しなかった。