ローマ帝国(専制君主制と没落)

専制君主制の時代

人皇帝時代を収めたのはディオクレティアヌスだった。彼は広大な帝国の統治と防備のため、帝国を2分してそれぞれ正・副帝をおく四分統治を行った。また元老院の機能を全廃して、皇帝崇拝を強行する専制君主制(ドミナートゥス)を樹立した。
その後また内乱に陥ったが、コンスタンティヌスが再統一し、首都をコンスタンティノープルに移した。彼は身分・職業を固定化し税収を確保し、313年ミラノ勅令キリスト教を公認し、ニケーアの公会議で教義を統一するなど、帝国の精神的統一を図った。
その後再び内乱等が起こったため、辺境にゲルマン民族を移住させ、異民族の防備にあてた。テオドシウス帝キリスト教を国教とするなど一時統一を回復したが、帝の死後帝国はアルカディウスホノリウスとに分裂した。東ローマはビザンツ帝国として1453年まで続いたが、西ローマは476年にゲルマン民族の侵入のため滅亡した。
ローマの繁栄は元々奴隷制に立脚したものであったが、ラティフンディアの経営は次第に悪化した。原因は①奴隷労働の非生産性 ②征服戦争停止による奴隷人口の減少 ③属州の経済発展の結果ローマの輸出が減り、所有地を小作地として賃貸するコロナートゥスが成立した。しかし都市の衰退等によって物流が減少し、属州遠心主義となった ことが挙げられる。

古代世界の没落

ローマ末期の社会はすでに変化が始まっていた。①ラティフンディアからコロヌス制への変化である。これは自由農民が属州の発展によって没落し、奴隷は小作人となり経済的地位が向上した。さらにコロヌスの移動は禁止された。②貨幣経済が政府の貨幣改悪を契機に完全に衰退し、自然経済への逆転が著しくなった。③ローマ中心ではなく属州遠心と地方分権が進み、都市は重税がかけられて衰退していった。④重装歩兵市民団が崩壊し、私的な傭兵軍隊(ゲルマン人等)となった。⑤ゲルマン人がコロヌスや傭兵としてローマに入り込み、内部からゲルマン化していった。