ローマ文化

ローマ文化は独創的な文化ではなかったが、ギリシア文化を受け継いで、後のヨーロッパ世界に伝えた点に功績がある。
哲学では世界市民主義・個人主義に立脚したストア派哲学が全盛だった。「幸福論」を書いたセネカ(ネロの家庭教師)、「自省録」を書いたマルクス=アウレリウス=アントニヌス(哲人皇帝)、「語録」を書いたエピクテトスギリシア人奴隷)の三人は、ストア派三賢人といわれている。文学ではラテン語文学が起こった。最大の雄弁家キケロや、「ガリア戦記」を書いたカエサル、「アエネイス」を書いたヴェルギリウス、「抒情詩集」を書いたホラティウス、「メタモルフォーゼ」を書いたオヴィディウスがでた。歴史ではリヴィウスが「ローマ史」を書き、タキトゥスは「ゲルマニア」や「歴史」を書いた。またプルタルコスは「対比列伝」を書き、ギリシアとローマの偉人を比較した。ローマ人はギリシア文字からローマ字を作り、ラテン語を帝国領土内に普及させた。
ローマを代表するものは法学である。ローマの成文法はローマ市民法として完成したが、万民はただ一つの法律の下におかれるべきという民法思想が発達した。ビザンツ帝国ではテオドシウス2世が「テオドシウス法典」を作り、ユスティニアヌス帝トリボニアヌスらに「ローマ法大全」を編纂させた。ローマ法は帝国滅亡後も生き続け、11世紀にはボローニャ大学にローマ法研究の注釈学派が起こった。
建築・土木では実用面で著しい発達を見た。セメントを使用してアーチ形状を用いたその技術はローマ独特のものである。凱旋門パンテオン神殿や、ガール水道橋、アッピア街道が有名である。

キリスト教の成立と発展

ローマではギリシア人の宗教と同じく現世的色彩の強い多神教だったが、帝政期には東方の神秘的な密儀宗教が圧倒した。その中で異色だったユダヤ教の中から、イエスが生まれた。イエスパリサイ人の戒律主義を批判し、戒律ではなく神の愛によって救われると説いた。これはユダヤ教指導者から反感を買い、またあまりに内面的な内容は民衆の理解を超えていた。その結果総督ポンティウス=ピラトゥスによってゴルゴダの丘で処刑された。イエスの直弟子だったペテロ十二使徒パウロ(異邦人の使徒)は熱心な伝道を行った。
キリスト教の思想は、世界市民主義の精神と相通じるものであり、魂の救済の強調は下層民や奴隷に光明を与えた。こうして急速に浸透したが、皇帝崇拝を否認していたため強い迫害にあった。それはネロ帝からディオクレティアヌス帝まで、約250年間続けられた。しかし信徒たちは地下のカタコンベで団結を強め、「新約聖書」や教会組織が形成された。
キリスト教の普及の要因は、①ローマ帝国の転換期のため社会不安が激しかった ②神の前に差はないとする教説は下層民の精神的な支柱となった ③ヘレニズム文化から多くのものを吸収した ④世界的普遍的性格がローマ帝国の世界性と一致した ⑤国際語としてのギリシア語(コイネー)で布教されたこと などがある。
コンスタンティヌス帝によって公認されたキリスト教は、教義の統一を図った。325年ニケーアの公会議ではアタナシウス派(三位一体説)が正統となり、キリストの神性を否定するアリウス派は異端となって東方ゲルマン人に広まった。その後背教者ユリアヌスミトラ教徒)を経て、テオドシウス帝は380年に国教とした。431年エフェソスの公会議ではネストリウス派が異端となり中国に伝わった(景教。また教義の確立に努めた教父が現れ、特に「神の国」を著したアウグスティヌスは、後世の思想に大きな影響を与えた。こうしてキリスト教は繁栄し、教会や司祭も大土地所有者となって富裕化した。