中国古代帝国の成立と文化

春秋戦国時代

周の東遷以後権威は衰えたが、斉の桓公を中心に同盟を結んで周を擁護する尊王攘夷を唱えた。この有力諸侯を覇者という。この桓公以外にも、楚の荘王や呉王夫差、越王勾践などが覇者となり、春秋の五覇と呼ばれた。しかし戦国時代になると周王室は全く無視され、斉・楚・秦・韓・魏・趙・燕の七国対立の形勢となった。これを戦国の七雄と呼ばれた。やがて秦が強大となり、他の六国は蘇秦合従策によって対抗したが、秦は張儀連衡策によってこれを破り、前221年に天下を統一した。

春秋戦国時代の社会

春秋戦国時代は、各諸侯が富国強兵に努めたので、生産は高まり、商工業も発達した。農業では鉄製農具が利用され、鉄製のすきを牛に引かせる牛耕が生まれた。この生産力の増大が秦の国家統一の基礎となっている。経済の発展によって青銅貨幣(刀・布・環銭、蟻鼻銭)が流通した。政治組織は未墾地を開墾した際、これらの土地を直轄地として支配するため役人を派遣して治める郡県制が育った。こうして都邑中心の国家が次第に領域国家へと変化していった。またこの時代は個人の実力を重視していた。従来の村落共同体による共同耕作は、生産力の増大により家族単位の農耕に変わった。こうして土地私有の傾向が強まり、貧富の差が生まれた。
  

中国思想の発展

春秋戦国時代は各国が富国強兵を競って才能ある物を登用しようとし、そのため立身出世の機会が与えられていた。こうして様々な思想家が生まれた。この諸子百家たちによって、中国思想の黄金時代を迎えた。
最も早く現れたのは孔子に始まる儒家である。彼は「仁と礼」に基づく政治を主張した。彼の言行を記したのが「論語」である。この学派からは戦国時代に孟子荀子が出た。孟子性善説を唱えたが、荀子性悪説を唱え、のちの法家に影響を与えた。
少し遅れて現れた墨子は、仁は差別的な愛であるとして否定し、兼愛非攻を主張した。老子無為自然を唱え、この思想を発展させた荘子とともに老荘思想と呼ばれた。この道教は長く中国思想に影響を及ぼした。
法家君主の法を重んじ、絶対君主権を肯定する現実的な思想であった。秦の孝公に用いられた商鞅が富国強兵に成功した。さらに韓非子がでて大成し、秦代には李斯始皇帝に用いられて実行した。