秦・漢帝国
秦の統一
商鞅を用いて中央集権化を進めた秦は、都を咸陽に定め、前256年に周を滅ぼした。次の秦王政は、前221年全国を統一し始皇帝と名乗った。そこで法家李斯の献策に基づいて統一政策を行った。官制については、丞相・大尉・御史大夫をおいて中央集権的官僚体制を作った。また郡県制(郡の下に県を置き、中央から官吏を派遣して統治)を施した。また全国の都邑を破壊し、豪族を首都に集めて反乱を防止した。他に貨幣を半両銭に統一し、度量衡や車の幅を統一して経済発達を促した。言論・思想の統一を図るため、焚書坑儒を行って諸学派を圧迫した。
対外政策では、強大化した匈奴にたいして将軍蒙恬を派遣した。また戦国時代に作られた長城を補修した(万里の長城)。このように広大な領土を支配したが、急激な改革と厳格な法律に民衆は不満を持った。さらに外征や長城の修復、壮大な王宮(阿房宮)などの建設で民衆の生活は圧迫された。そのため始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱などが起こり、前206年秦は滅亡した。
前漢時代
この混乱の中で項羽と劉邦が台頭した。前202年に劉邦が垓下の戦いで項羽を破り、都を長安において(前)漢帝国を建設した。
漢は法律や租税をゆるめ、長安周辺を郡県制とする以外は封建制を取り入れた郡国制を行った。高祖(劉邦)は守りを固めようとしたが、強大化した冒頓単干に敗れて講和を結び、消極的な和親策をとった。その後呉楚七国の乱を平定して諸王を廃し、郡県制確立へと向かった。
武帝のとき、推恩の令(嫡子相続の領土を分封させた)をだして諸王の力を弱め、全国的に郡県制を確立し、郷挙里選による官僚体制を整備した。また彼は儒教を尊重して国教として思想の統一を図り、官僚にもその教養を求めた。対外的には衛青と霍去病を北に送って匈奴を追わせ、さらに西方の大月氏と同盟して匈奴を討つため張騫を西域に派遣し、その後鳥孫にも派遣された。さらに服属を拒否した大苑(フェルガナ)を討ち、東北では衛氏朝鮮を滅ぼすなど領土を拡大した。こういった政策による浪費で、財政は困窮した。そこで武帝は、人民に重税を課し、貨幣を五銖銭に改鋳し、塩・鉄の専売を行い、均輸(上納する現物と輸送費を合わせて各地の負担を平均にする)・平準法(国が安いときに物資を購入し、高いときに売って物価を調整する)による商業統制を図った。そのため人民の負担は増大し、社会不安を解消できなかった。武帝の死後の混乱で外戚と宦官が権力を争い、大土地を所有する豪族が地方政治を握った
権力闘争に勝利した外戚の王莽は、自ら帝位について新と称した。しかし極端な復古主義政策を行ったため、社会を混乱させて豪族や農民の反抗を招いた。異民族の侵入等の乗じて、赤眉の乱が起こり、さらに豪族も反乱を起こしてわずか15年で崩壊した。