漢時代の社会と文化

社会

当初は郡国制を行っていたが、呉楚七国の乱以降、中央集権化を図り郡県制となった。また郡・県の下に郷・里を置く郷里の制を行った。官吏登用法は郷・里の有力者と地方長官が推薦する郷挙里選を行った。後漢ではそれに加えて形式的な儒学の試験で採否が決定された。兵制は徴兵制で、正卒(天子の儀仗や宮城の守護)と戌卒(辺境守備)に就いた。
武帝のとき、一年ごとにうねと溝を代える代田法が創始され、灌漑や農具の発達もあって生産力は増大した。また五銖銭を発行して通用させた。このため村落共同体が崩壊し、豪族による大土地所有が進んだ。そこで政府は限田策を実施し、土地と奴隷を制限しようとしたがうまくいかなかった。後漢は豪族の支持によって成立したため、豪族の勢力はますます増大し、農民は政府の軍事費支弁や軍役等によって困窮し、豪族の隷属的農民(佃子)になるものが多かった。

文化

武帝は支配強化のため、董仲舒公羊学説を用いて儒学を官学とし、五経博士をおいた。また官吏任用にも用いられるなど、儒学が保護・奨励されたため、長く中国思想の源流となった。こうして地位を確保した儒学は固定化し、訓詁学失われた古典の復旧と注釈)が馬融鄭玄らによって大成された。歴史学では、紀伝体で書かれた司馬遷の「史記」と班固の「漢書」が代表作となっている。また許慎は「説文解字」という辞典を作った。
社会不安が激しくなった後漢末頃、老荘思想五行思想讖緯説が結びついて、太平道張角五斗米道(張陵)が広まり、道教の源流となった。後漢蔡倫は紙を発明し、これがやがて世界中に広がっていった。科学では古代医学について張仲景が「傷寒論」を書いた。