中国の分裂と異民族の侵入

三国の分立と晋

後漢の弱体化とともに、豪族が勢力を伸ばし、農民を使役して大土地を耕作させて豊かになった。これらの豪族から曹操がでて華北の大部分を平定した。その子曹丕は帝位を譲り受けてを建国した。それに対し劉備諸葛亮の補佐を得て、を建国した。また江南の豪族孫権を建国し、都を建業においた。
三国の中で最も勢力をもったのは魏だったが、蜀を滅ぼした後の265年に権臣司馬炎が帝位を譲り受けて晋を建国し、呉を滅ぼして中国を統一した。しかし領土を与えられた皇族諸王が争い八王の乱が起こると、河南地方などは荒廃した。さらに空論を戦わせる清談の風や民衆の反乱で動揺した。316年に匈奴永嘉の乱を起こして洛陽に攻め入り、晋を中断させた。
そのとき江南にいた司馬睿は、華北から避難してきた貴族や江南の豪族の支持を得て、317年に即位して首都を建康とした。洛陽の時代を西晋、建康の時代を東晋を呼ぶ。

五胡十六国

晋の東遷後、実力を蓄えていた異民族が中国に侵入しだした。トルコ系の鮮卑匈奴とその別部のチベット系のが小王国を建てて次々に興亡した。これら5種の異民族を五胡と呼び、北魏に至るまでを五胡十六国時代と呼ぶ。このうち氐の前秦の王苻堅は、東晋も征服して統一を図ろうとしたが、383年淝水の戦いで敗退した。

南北朝時代

五胡十六国北魏によって統一されたころ、江南では東晋に変わって宋が現れ、南北の対立となった。この時代を南北朝時代と呼ぶ。
鮮卑拓跋氏によって建国された北魏は、華北を統一して宋と対立した。孝文帝のとき国力がが充実し、文化も繁栄した。彼は均田制を制定して、荒廃した農村の復興を図るとともに税収の基礎を固め都を平城から洛陽に移して漢化政策を行った。そのため鮮卑人は文弱となり、孝文帝の死後東西に分裂した。西魏府兵制を行ったが、まもなく宇文氏に国を奪われ北周となった。
東晋は失政が多く、結局劉裕が帝位についてを建国した。その後安定はせず、斉・梁・陳と王朝が変遷した。江南では、晋の東遷により多くの貴族・豪族が江南に移住した。彼らは江南土着の豪族より優越的地位を保つため南朝政権と結合し、貴族社会を確立させた。そのため、公安では貴族勢力が強大で、皇帝権は振るわなかった。