貴族社会とその文化

大土地所有制

後漢末の混乱の中で、流民化した農民に土地を耕作させて収益を上げ、豪族は地方の実権を握るようになった。彼らは相互に通婚をして門閥貴族となり、中央の政治まで左右した。
こうした貴族の大土地所有と農民の隷属化は、国家の財政と軍事の基礎を危うくするものだったため、王朝は貴族の抑圧と大土地所有の抑制を図った。三国時代の魏では、屯田をしいて、荒田を国有とし、それを流民や農民に割り当てて耕作させた。西晋では、占田法課田法を行った。占田法では貴族の土地所有を官爵によって制限し、課田法では農民に対して一定の土地を給した。これを引き継いだのが、北魏均田制である。孝文帝は土地を一定の基準で農民に給付し、自作農の拡大を図った。また三長制という隣保制度をしき、財政確保と治安維持を行った。これは唐の時代に完備された。東晋では土断法をしき、移住者を必ず現地の戸籍につけ、その隷属民化を防ごうとした。
こういった様々な政策は一時的に効果を見たが、結局大土地所有の進行を防ぐことはできなかった。また官吏任用制度の九品中正法は中正人が豪族だったため、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われるように、豪族の官吏独占を強めることとなった。兵農一致に基づく府兵制は均田制とともに唐に至って完成をみた。

六朝文化

六朝とは、三国の呉・晋(東晋)・宋・斉・梁・陳をいい、建業又は建康を都とした。中国の伝統は江南において維持されたとい考えから六朝文化と呼ばれる。
特徴としては貴族文化であり、自由清新な精神活動が行われ、高雅な文化が発達した。文章では四六駢儷体という文体が発達した。梁の昭明太子が編纂した「文選」はこの時代の代表作が収められている。また陶淵明の「帰去来辞」や自然美をたたえた謝霊運らがでた。絵画では「女史箴図」を書いた顧緂之は、中国画の祖とされ、画聖と呼ばれた。書では王羲之が古今第一と呼ばれた。学術では、賈思勰が農業技術の集大成として「斉民要術」を書き、道元が地理と歴史を記した「水経注」を著した。
  
江南の地では、老荘思想が普及した。特に儒学に対する反発もあって、世俗的な政治論を避けて哲学論議をもてあそび、伝統的儀礼を無視して超俗を誇る傾向が生まれた。これを清談といい、竹林の七賢阮籍ら)が清談を戦わせた。
仏教では、4世紀初め洛陽にきた仏図澄によって基が開かれ、5世紀には長安鳩摩羅什が来て翻訳を行い、6世紀には達磨が梁にきて禅宗華北に伝えた。また東晋の僧法顕も6世紀にインドに向かい、陸路グプタ朝チャンドラグプタ2世の時代にインドに赴き、海路セイロンを経て帰国し、「仏国記」を著した。この時代の仏教は、北朝では国家仏教となり、南朝では貴族社会で発展した。また道安慧遠によって民間にも普及した。仏教美術も盛んで、敦煌の千仏堂や雲崗・竜門などの石仏・壁画などは、グプタ様式を取り入れて作られている。
道教五斗米道太平道を源流に、老荘思想と結合しながら発展した。仏教の影響もあって、仏寺に相当する道観も造られ、5世紀に道教として確立した。北魏寇謙之新天師道を作り、国教として採用させることに成功した。このときの太武帝は仏教を弾圧し、三武一宗の法難に数えられる。