隋・唐の統一

隋の南北統一

楊堅長安を都として建国したは、589年南朝陳を滅ぼし南北を統一した。文帝は均田制や府兵制を受け継ぎ、大土地所有を抑えるなどして中央集権の確立に努めた。その代表的なものとして、試験による官吏任用制度の科挙が行われた。
次の煬帝は南北を結ぶ運河(通済渠、永済渠)を開き、江南の米産地帯と政治の中心である洛陽・長安を直結させた。こうして南北はつながり、統一は完成した。
対外的には柔然に変わって拡大した突厥が東西に分裂したのを利用し、東西突厥の勢力を弱め、西域を支配した。また青島地方の吐谷渾を征服したため、西域諸国の商人が隋に来住した。
しかし高句麗との対立で何度も遠征をしたため、国力は消耗し、運河構築の工事と相まって、人民は重税に苦しめられた。こうして618年隋は滅亡した。
  

唐の東アジア支配

618年李淵は都を長安においてを建国した。その次男の李世民玄武門の変で実権を奪い、太宗として統治した。その治世は貞観の治として名高く、三省六部を中心とした中央集権体制が確立した。
対外的には太宗とその子高宗が活躍し、世界帝国を形成した。北方の東突厥を滅ぼし、吐蕃を服属させ、高昌など西域諸国を服属させた。また高宗のときにいは、西突厥を平定し、高句麗百済も滅ぼした。こうして征服した辺境地域には都護府を設けて防備に当たらせ、また民族の首長に官位を与えて統治させる羈縻政策を行い、ある程度の自治を許した。
  
高宗の末期には皇后の側天武后が権力を握り、高宗の死後、武周革命を起こして帝位についた。女帝の死後は中宗が帝位についたが、皇后の韋后が中宗を殺した。この二つを武韋の禍と呼ぶ。この内紛の時期に、均田制・府兵制は崩壊し、募兵制が発達した。
次の玄宗開元の治と呼ばれる平和な時代を現出したが、楊貴妃におぼれて安史の乱を招いた。節度使安禄山と史思明によるこの内乱は、中央の力を弱体化させた。税を中央に送らない節度使が多くなり、唐の財政は困窮した。そのため徳宗時代の宰相楊炎両税法を実施したが、唐の威信を回復することはできなかった。
諸民族は唐と通交することにより発展したため、唐の対外発展は行き詰まった。朝鮮では新羅が強力にはり、唐勢力を朝鮮半島から駆逐した。また靺鞨人高句麗の遺臣とともに渤海国大祚栄)を建てた。モンゴルではウイグルが勢力を伸ばし、吐蕃が唐に侵入し、雲南地方では南詔が起こって唐を苦しめた。
国内でも六都護府の変わりに節度使をおいて辺境防備にあたったが、彼らは多くの傭兵を従え、軍事・行政・財政を任されたため、軍閥勢力となった。
こうして衰退した唐の中央では宦官が勢力を増して混乱した。そのため、874年王仙芝と黄巣黄巣の乱を起こして、江南地方を荒廃させたため、経済的基盤を失った。これにより貴族や豪族は勢力を失い、節度使が勢力を強めた。その中で朱全忠が帝位について後梁を建国して唐は滅びた。