唐の社会と文化

唐の諸制度

中央官制は尚書省中書省門下省の三省と、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部から構成されている。中書省詔勅の草案を作り、門下省で審議して尚書省へまわされ、それが六部を通じて施行されるという仕組みになっている。官吏任用制度は科挙を行った。また父祖の官爵に応じて任用する制度もあり、貴族も要職を占めた。

均田制と府兵制

均田制と府兵制は、所有者のいない土地を国有化し、これを人民に分配して、その人民を義務として兵役に就かせた制度である。
均田制では男子に口分田(一代限り)と永業田世襲)を給し、租(田地の税)・庸(1年20日の労役)・調(付加税)を課した。それ以外にも雑徭があって、これが住民を苦しめた。しかし貴族の大土地所有も認められていたので、荘園を形成して半奴隷的な小作人によって耕作させた。
府兵制では全国に折衝府を設け、3人に1人の割合で府兵を徴集し、租・庸・調を免除した。
武韋の禍の頃に、負担に耐えかねて貴族や寺院に、土地ぐるみに流れ込むものが多くなった。そのため均田制が乱れ、府兵制の維持も困難になった。玄宗は様々な名目の税を徴収したり、募兵制(傭兵)を採用して国力の充実を図った。
均田制の崩壊をうけて、徳宗の宰相楊炎両税法を実施した。これは税を整理して、夏・秋の2回に分けて土地・財産に応じて課税したものであった。これにより土地の私有を認めたことになり、均田制は完全に崩壊した。こうして大土地所有が発展し、有力者は公然と荘園を所有し、佃戸を使って耕作させた。
  

中国伝統文化の形成

隋・唐期の文化は国際色豊かな文化を生んだ。官吏任用試験でも文学をもって試験をする進士科が重要視されたように、文学が盛んになった。玄宗時代の李白杜甫が最も有名である。他に王維孟浩然がでて、唐末には白居易杜牧がでた。文章では四六駢儷体が流行したが、韓愈柳宗元は古文の復興を提唱して散文文学の先駆となった。
学術では訓詁学の域をでなかった。孔穎達は「五経正義」を作ったが、これは五経の注釈を集大成したものだった。これが科挙のテキストになったために固定化していった。史学では劉知機の「史通」や杜佑の「通典」が著された。
書道では欧陽詢虞世南褚遂良がでて、さらに玄宗時代には顔真卿がでた。絵画では閻立本の人物画、玄宗時代の李思訓呉道玄らは山水画の名手として知られている。王維は南宗画の租とされている。
東西交通も陸路と海路で行われ、ソグド人が中継貿易で活躍した。アラビア(大食)人の商人も来住し、市舶司も設けられ、揚州・泉州・広州が急速に発達した。こうして国際色豊かになった当分かは周辺諸国にも影響を与え、東アジア文化圏を形成させた。
  
仏教は皇室・貴族の帰依によって隆盛となった。唐の玄奘が陸路で、義浄が海路でインドにいき、多くの仏典を持ち帰って仏教界に清新の気を加えた。玄奘の「大唐西域記」、義浄の「南海寄帰内法伝」はその旅行記として知られる。
道教は唐室が老子と同姓だったため保護された。9世紀中頃には会昌の廃仏で仏教弾圧を行った。
西方からゾロアスター教マニ教ネストリウス派キリスト教など(三夷教)が流入した。ゾロアスター教祅教と呼ばれた。ネストリウス派キリスト教景教と呼ばれ、長安には波斯寺(大秦寺)が建てられた。781年に建てられた大秦景教流行中国碑はその流行を示したものである。イスラム教もアラビア人によって伝えられ、イスラム寺院清真寺と呼ばれた。