五代の分裂と宋の統一

五代十国

唐の滅亡後907年に朱全忠後梁を建てたが、続いて後唐・後晋後漢・後周が交代した。この期間を五代という。後唐後晋後漢を建てたのは、沙陀突厥出身の武将であった。ちなみに後唐が洛陽を首都とした以外は、すべて汴梁開封)であった。
五代は華北の一部に過ぎず、その他地域は小国が抗争を続けていた。これらを十国という。その中で比較的平和な状態が長く続いた南唐・呉越・前蜀後蜀が注目される。
五代の君主は武断政治を行い争乱が続いたため、地方に平和な状態が生まれた。しかも軍隊を養うために領内の開発を行ったため、農業生産量が増加した。争乱を避けて地方に移住したため、中央の文化が地方都市に普及し、金陵(南京)・杭州成都などで文化が栄えた。門閥貴族は唐の衰退とともに政治的権力を失い、黄巣の乱などで土地も失い没落した。代わって士大夫階級(形勢戸)が勢力を伸ばした。

宋の統一

960年趙匡胤開封を都として北宋)を建国した。宋は燕雲十六州の奪回に失敗した他は全国を統一し、文治主義を採用した。まず①節度使の権限を削減し、②欠員には文官を当て、③さらに兵員を皇帝直属にして親衛軍を強化し、④殿試を創設して科挙を整備した。こうして中央集権・君主専制の強化を目標とし、君主専制の官僚政治体制を確立した。
宋は文治主義のため武力不振で外交も消極的となり、遼・西夏・金などの異民族に苦しめられた。遼とは1004年に澶淵の盟を結び、毎年絹・銀を送った。西夏とは1044年に慶暦の和約を結び、毎年銀・絹・茶などを送った。こうして仁宗の時代には平和が続いたため、慶暦の治という。
こうした対外出費と官僚組織の費用がかさみ、宋は財政の危機を感じだした。また遼・西夏との屈辱的な和議についても反省された。神宗王安石を宰相として改革を断行させた。王安石は、均輸法(物価安定)・青苗法(農民向け苗の低利貸出)・市易法(商人向けの低利貸出)・募役法(農民の負担軽減策)・保甲法・保馬法(兵農一致の強兵策)などの政策を断行した。これら諸政策は従来の旧法に対して新法と呼ばれる。これにより政府の財政も黒字化したが、官僚や地主の利害と反し、司馬光などの反対にあい失敗した。その原因としては、改革の急激さと官吏が成績を考えて民衆の利害を無視したことなどが考えられる。
神宗の死後は保守派の司馬光が宰相となり、新法は廃止された。その後この旧法党と新法党の争いが激化し、権力闘争となっていった。