元の社会と文化

社会・経済

金末の戦乱で、華北は大土地所有者が没落して自作農が増加したが、江南では大土地所有が行われて佃戸制がますます発達した。また揚子江流域に綿花の栽培が普及し、木綿が安価で供給された。この江南の経済力に依存していた元は、江南から華北への物資輸送に懸命になり、新運河を掘って補強を図った。これでも不十分なので、沿岸沿いに海上輸送路を開き、これらを併用した。
元では交通網が充実し、東西交流が発達した。西方遠征も東西貿易路を掌握することにあった。さらに駅伝(ジャムチ)制の充実に努めた。また海上貿易も発達し、泉州・広州などは、当時世界有数の港市として繁栄した。こうした商業の発達に伴い、元は交鈔を発行したので、これが主要通貨となった。しかしのちに濫発したため、経済界を混乱させて元滅亡の一因となった。

元の文化と東西文化の交流

江南の漢人社会では、豊かな経済力を背景に庶民文化が発達した。戯曲は元曲と呼ばれて、傑作が多く生まれた。恋愛劇の「西廂記」、両親への孝養を描いた「琵琶記」、王昭君の悲劇「漢宮秋」などは今日でも広く読まれている。口語文学では「三国志演義」や「水滸伝」などの原型がこの時代にできあがった。絵画では南宗画が確立し、書道では趙孟頫が伝統を伝えた。
東西交流によってイスラム世界の優れた科学が中国に伝えられた。郭守敬授時暦を作り、それが日本の貞享暦となった。遠くヨーロッパからの旅行も多く、ヴェネツィア商人のマルコ=ポーロ陸路大都に来て、フビライ=ハンに仕え、帰国後「世界の記述」を書いた。元末にはイブン=バットゥータ海路中国にきた。また教皇インノケンティウス4世使節として宣教師カルピニや、仏王ルイ9世の使者ルブルックモンゴル高原に到達し、13世紀末には元朝モンテ=コルヴィノがきてキリスト教を布教した。一方元朝からはラッパン=ソーマがフランスに渡って、ローマ教皇に謁見した。