明清時代の社会と経済

農村の階級分化

皇帝独裁の支柱である官僚は、高度な儒教的学問と教養を求められたため、大部分が農村の地主層によって占められた。彼らは自ら商人を兼ね、または商人と結託して、利益を土地に投じて農民を収奪した。彼らは郷神よばれ、こうして官僚・地主・商人が一体となって支配階級を構成した。
農村では荘園的土地所有が盛んであったが、貨幣経済の発達により、佃戸は農奴的なものよりある程度の自由を認められるようになった。しかし江南では高い人口密度や狭小の田地により、農民の貧困化が進み、土地を手放した農民が大地主に吸収された。こうして農民は地主に対して抗租運動を起こし、1448年には訒茂七の乱が起こった。福建広東の土地の少ない沿岸地域の農民のうちには、海外渡航の禁を犯して東南アジア各地へ移住した。かれらはのちの南洋華僑の先駆者となった。

産業の発達

江南では農村の副業として綿・絹織物・養蚕・製糸などの手工業が発達した。綿織物は南京木綿の名において海外にまで輸出されるようになった。そのため、江南のデルタ地帯では、水田が綿や桑の栽培に切り替えられ、「湖広実れば天下足る」といわれるように、穀倉地帯が揚子江中流に移った。都市においても産業は発達し、一部にはマニュファクチュア的生産形態が見られた。特に蘇州の絹織物や景徳鎮の陶磁器は、盛んに外国へ輸出された。

商業と貿易

産業が発達した結果、商人の動きが活発になった。特に山西省山西商人安徽省新安商人は、塩の販売を独占したり、政府事業を引き受けたりしてと巨利を得、また高利貸しを営んだ。こういった地方商人は大都市に会館(同郷人組合)や公所(同業者組合)を設けて組織化し、強い団結力をもって資本を蓄積した。清朝になると山西商人のうち票号と呼ぶ為替業を営むものや、両替商で一種の銀行業務を行う銭荘も現れた。
明では宝鈔とよばれる貨幣を用いていたが、流通しなくなり、銅銭が使用され、高額取引では銀が用いられた。清朝盛時までは自給自足ができたので、輸出が圧倒的に多く、その見返りとして大量のメキシコ銀流入した。そのため貨幣経済が農村にまで浸透し、租税は銀で納められるようになった。明の万暦帝のときには一条鞭法が行われ、清代には丁銀と地銀を合わせた地丁銀が実施された。清では外国貿易を広東一港のみを許しており、貿易の事務を公行という商人組合に行わせた。かれら(広東13行)はこの独占によって巨利を得ていたため、イギリスはこの制度を改革させようと、1793年にマカートニー、1816年にはアマーストを派遣したが、いずれも失敗した。