明清時代の文化2

明清の文学と芸術

商工業が発達して庶民の生活が豊かになり、都市が繁栄して大衆が享楽を求めるようになったため、文学が発達して読者層を獲得した。明代には「水滸伝」「三国志演義」(羅貫中)、「西遊記」(呉承恩)「金瓶梅」などが作られた。短編小説集の「今古奇観」、長編戯曲の「牡丹亭還魂記」(湯顕祖)なども有名である。清代には「紅楼夢」(没落貴族の生活を描いた)や「儒林外史」(科挙を風刺)、「聊斎志異」などが代表作とされ、戯曲では「長生殿伝奇」(玄宗楊貴妃)、「桃花扇伝奇」などが知られている。
絵画は北宗画では仇英が、南宗画では沈周董其昌らが有名である。清代になると南宗画が発達した。一部は民族主義の立場から南宗画に対抗して文人を始めた。

ヨーロッパ文明の伝来

宗教改革に対する反動としてイエズス会が海外布教を行った。1601年明の万暦帝に面会したマテオ=リッチは布教の許可を得て、徐光啓ら有力な官僚を改宗させた。そしてヨーロッパの科学技術を教え、「幾何原本」や「天主実義」などを著し、またオルテリウスの世界図を基礎とした「坤輿万国全図」を作って印刷した。明末期にはアダム=シャールが来航し、清にも仕え、康煕帝の命でフェルビーストとともに「坤輿全図」を作った。またブーヴェレジスらは康煕帝の命で「皇輿全覧図」を作り、中国本土を実地測量した。またカスティリオーネは油絵や明暗法・遠近法を伝えて中国絵画に影響を与え、西洋風な円明園を作り、乾隆帝の命で西洋式の噴水を作った。
こうしたイエズス会の布教は、キリスト教徒に孔子や祖先をまつる典礼という儀式に参加することを認めるなど、中国の伝統的習慣に寛容なものであった。しかし他の会の宣教師はこの寛容な態度を教義に反すると非難した。この典礼問題は1704年ローマ教皇クレメンス11世により異端の宣告を受けた。そのため康煕帝典礼を否認する教団の中国伝道を禁止し、雍正帝学問・技術等以外の者を国外に追放し、ついで乾隆帝は1757年に貿易をも広東一港に制限した。
こうしたヨーロッパの科学や技術は一部権力者に実用的な意味で受け入れられたが、まだ当時の中国人はこれらを十分に理解する能力がなく、中国の社会や文化に影響を与えることは少なかった。