ムガル帝国の成立

インドの初期イスラム王朝

8世紀の初め頃からイスラム教徒のインド侵入が始まった。10世紀後半トルコ人アフガニスタンカズナ朝を建てた。7代目マフムードは何度も北インドに侵入し、北インドイスラム化を行った。ガズナ朝が衰えると、1193年ゴール朝がデリーを占領し、北インド全域に領土を広げた。奴隷出身のアイバクは、1206年デリーを首都としたインド最初のイスラム王朝を建てた。奴隷出身の王だったため、これを奴隷王朝と呼ぶ。その後、ハルジートゥグルクサイイドロディーアフガン系)と続き、奴隷王朝からロディーまで全てデリーを首都としたイスラム系王朝なので、デリー=スルタン朝と呼ぶ。
これら初期イスラム王朝は、ヒンドゥー教を圧迫してイスラム化を強制しようとした。しかし同時にカースト制に苦しむ下層民は、平等を説くイスラム教に共鳴して改宗しだし、インド社会に変革を及ぼした。イスラム支配者は次第に貢納を条件にヒンドゥー教カースト制をそのまま国家体制の中に組み込んでいったが、宗教的民族的に一致しないヒンドゥー教イスラム教は対立し続けた。

ムガル帝国

ティムールから5代目の孫であるバーブロディー朝の混乱に乗じてパンジャブー地方に侵入し、1526年パーニパットの戦いロディー朝を破ってムガル帝国を建国した。しかし帝国の基礎は弱く、2代目フマユーンはスール朝に敗れてイランに亡命した。1555年にサファヴィー朝の援助を受けてデリーを奪還し、ムガル帝国を復興した。

アクバル大帝

3代目のアクバルは都をデリーからアグラに移し、イスラム教に反感を持っているラージプート族を懐柔しながら領土を拡大した。そして宗教的調和や民族融和を図るとともに、官僚制など中央集権的専制国家を確立した。
宗教施策としては、非イスラム教徒に対するジズヤ(人頭税)を廃し、両教義を折衷した神聖宗教(ディーネ=イラーヒ)を作った。
中央集権的政治体制としては、①12州に分けて中央から総督を派遣して統治し、②徴税区に細分して税務を一般行政から分離させた。また③土地測量を実施して、面積と等級に応じて税率を設定し、④官吏の封土に制限を加え、俸禄制に切り替えた。経済政策としては手工業を保護奨励し、貨幣制度を確立してルピーの基礎を作った。