フランク王国の成立と発展

メロヴィング朝

5世紀末メロヴィングクローヴィスフランク族を統一し、ガリア全域を支配下に収めた。この背景には、クローヴィスがローマ=カトリックに改宗し、ローマ=カトリック教会と提携したことがあった。
クローヴィスの死後王国は分裂と内乱を繰り返した。それはサリカ法による分割相続制や王権に対して貴族の権力が優勢であったためと考えられる。

カロリング朝

8世紀前半に政治の実権は宮宰(マヨル=ドームス)カロリングに移った。宮宰カール=マルテルイベリア半島に侵入したイスラム教徒軍を732年トゥール=ポワティエ間の戦いで破り、威信を高めた。
こうして751年マルテルの子小ピピンは、教皇ザカリアスの承認を得てクーデターを起こし、カロリング朝を開いた。教皇は特使としてボニファティウスを送って祝福した。これに対してピピン教皇ステファヌス2世の要請に応えてロンバルド族を征服し、ラヴェンナ地方を寄進した。これが教皇領の起源とされている。

カール大帝シャルルマーニュ

ピピンの子カールは相次ぐ外征を行った。まずロンバルド王国を滅ぼして北イタリアを統一し、ザクセン・バイエルンの両族を平定し、アヴァールも討伐した。こうして領土は西ローマ帝国に匹敵するほど拡大した。これを見た教皇レオ3世ビザンツ皇帝への従属を断ち切るべく、800年カールにローマ皇帝の冠を与えた
内政では豪族割拠体制の打破を目標に中央集権化を行った。①全国を約300州に分け、各州にをおいて統治させ、②王直属の巡察使を各州に送って監督させた。また③諸部族法を尊重しながらも、法の一元化を目指し、④個人的な主従関係をつくった。⑤司教などの高位聖職者の任命権を掌握して、⑦アーヘンに王宮を作り、古典的教養の復興に努め、アルクインらの学者を呼び、ラテン語純化に寄与した(カロリングルネッサンス)。しかし伯には地方豪族が任命され、巡察使も土着化したため、カールの死後分裂が起こった。
ベルギーの歴史家ピレンヌは「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」と述べている。これはフランク王国は、イスラム教徒と対抗して、ヨーロッパに成立した王国だという意味である。つまりマホメットによるイスラム帝国の成立とシャルルマーニュの登場が、地中海貿易からヨーロッパの内陸地での農業という変換をもたらしたということである。