ノルマン人の侵入

ノルマン人の活躍

スカンディナヴィア半島・ユトランド半島を現住地とするノルマン人ヴァイキング)は、デーン系・スウェード系・ノルウェー系に大別される。彼らは船を操り、ヨーロッパ各地の沿岸部を荒涼して引き上げていたが、しだいに内陸部に侵入するようになった。
この侵入に対する防衛で活躍したのがパリ伯のカペー王家であったが、991年シャルル3世はセーヌ川河口地域をノルマンの首長ロロに与えて、ノルマンディー候に封じた(ノルマンディー公国)。

イングランド征服

ブリタニアアングロ=サクソン七王国は、ウェセックス王のエグバートにより統一されてイングランド王国となった。ノルマンの侵入に対してはルフレッド大王が対抗して押し返した。しかし11世紀にデンマークカヌートイングランドを支配してデンマークに併合した。カヌートの死後、ウェセックス王家のエドワードが再びアングロ=サクソン王家を復活させた。
ノルマンディー候ウィリアムは王位継承権を主張してイングランドに侵入し、1066年ヘースティングスの戦いイングランドを征服してノルマン朝を開いた(ノルマン=コンクェスト)。ウィリアムは土地を没収して家臣に与えた。この領地のことをマナー(荘園)という。こうして王権の強い封建制度イングランドに移植された。このマナーの実情調査書をドゥームズデー=ブックという。
こうしてフランス王の家臣ノルマンディー候はイングランド王となった。ノルマン王家を継いだプランタジネット朝も、出身はフランスのアンジュー伯家であった。

ロシアの起源

スウェーデン系ノルマン人のルス族は、首長ルーリックに率いられて862年にノヴゴロド王国を建設し、スラブ人を支配した。その後摂政のオレーグキエフに首都を移してキエフ公国を建国した。彼らはビザンツ帝国接触して帝国内の商業特権を獲得するとともに、文化やギリシア正教を導入した。その後ノルマン人は数が少なかったため、スラブ人に同化していった。

両シチリア王国

ジブラルタル海峡から地中海に入ったノルマン人のロベール=ギスカールは、南イタリアナポリを首都とする王国を建てた。次いで1130年ルッジェーロ2世シチリア島イスラム教徒から奪って両シチリア王国を建国した。ここではビザンツイスラム文化や東方・南欧文化を吸収して、独特な南イタリア=ノルマン文化を生んだ。

北方三国の成立

10世紀頃にはノルマン諸部族が統合され、ノルウェースウェーデンデンマークの三王国が成立した。

マジャールイスラム

ノルマンと前後して、フランク王国東部にはアジア系諸民族が侵入を繰り返した。ドナウ川中流に移住したマジャール人は北イタリアまで侵入した。10世紀に入り、ドイツ王オットー1世は955年レッヒフェルトの戦いマジャール人を撃破した。以後マジャール人は定住し、ハンガリー王国を建国した。
他方イスラム勢はシチリア島を占領してイタリアやフランス海岸を荒らした。イスラム側は「キリスト教徒は地中海に板切れ一枚も浮かべることができなくなった」と豪語している。これによって東西交流は、商業・文化の諸局面にわたって一時途絶した。