ヨーロッパ諸国家の成立

フランス王国の形成と展開

カロリング朝の後王位についたカペー朝は、諸侯がイスラムやノルマン人の撃退で活躍する中、統制権を振る舞うことができなかった。特にセーヌ川下流ノルマンディー公家、ロワール川下流アンジュー伯家は勢力が強く、相次いでイギリス王を兼ねるにまで至った。アンジュー伯アンリ(英王ヘンリ2世)のときには、フランス王国の西半分がイギリス王家の統制下に入るまでになった(アンジュー帝国)。
12〜13世紀にかけての貨幣経済の発達と都市の成長を背景に王権は伸張し、フィリップ2世(尊厳王)はイギリスのジョン王と戦ってフランス国内のイギリス領をほとんど奪還した。また官僚制を整備し、都市への特権付与などの政策により、王政の基礎を固めた。
第6・7回十字軍を起こしたルイ9世アルビジョワ十字軍を送って、南フランスを王権の統制下に入れた。また修道士ルブルックをモンゴルに派遣し、西欧を代表する君主として活動した。
フィリップ4世は聖職者課税をめぐって教皇ニファティウス8世と争い、1302年には初の身分制議会である三部会を召集して国内の支持を得た。さらに教皇庁をローマからアヴィニョンに移し、国内の教会勢力を抑えた。

イギリス王国の形成と展開

イングランドを征服したノルマン朝は、中央集権的封建制という独得の体制を作った。ノルマン朝の断絶後、1154年アンジュー伯ヘンリ2世が王位について、プランタジネット朝を開いた。その息子リチャード1世は十字軍負担のため重税を課したため、不満が募っていった
リチャード1世の後のジョン王は、フランスのフィリップ2世と争ってフランス内の領土をほとんど失った。またカンタベリー大司教の任命を巡ってインノケンティウス3世に破門され、教皇にイギリス全土を寄進するという失態を演じた。さらに慣習法を無視して重税を課したので、封建貴族や大商人、市民が結束して王を屈服させた。こうして1215年マグナ=カルタ(大憲章)が発布され、封建的諸特権や自由人の生命、財産の保証などを規定した。
次のヘンリ3世は、大憲章を無視して失政を重ねたので、大貴族シモン=ド=モンフォールが反乱を起こして王を屈服させ、1265年モンフォール議会を召集させた。これは大貴族や高位聖職者だけでなく、各州の代表と都市の代表を加えた身分制議会で、イギリス議会の起源となった。
その後エドワード1世が1295年に模範議会を開き、エドワード3世のときに二院制が確立した。